おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

煙に巻く、紙で巻く

時は下り、開国・明治維新という歴史的イベントをへて、喫煙のスタイルも大きく変化します。パイプや葉巻などと共に、現在の喫煙の主流となる「紙巻きタバコ」(あえてここからカタカナ表記に変更します)が日本に入ってきました。

紙巻きタバコのルーツとして、南米の先住民がトウモロコシなどの葉でたばこを巻いて喫煙していた、というのが挙げられています。たばこの葉をそのまま吸えば葉巻ですが、刻んだ煙草を別の植物の葉で巻いて吸う、というのは喫煙の歴史の中でもかなり古くから行われていたようです。

wikipediaの「紙巻きタバコ」の項によると、通説として、1853年から1856年のクリミア戦争の戦地で、パイプを失った兵士が、火薬を包むための紙で刻んだたばこを巻いて吸ったのが始まりと言われています。実際には、これ以前にも紙巻たばこは少数ながら存在していたというので、通説は間違っているようです。が、クリミア戦争以降に紙巻たばこがヨーロッパ中に普及したのは事実ではあります。

当初の紙巻きは手で巻かれていましたが、「紙巻き機」が開発されたことで大量生産が可能になり、普及に拍車をかけることになります。

1880年代にアメリカ人のアリソンが発明したアリソン式両切紙巻き機

当然のことながら、当初は舶来品だった紙巻きタバコですが、元々原料となる葉は日本国内で収穫されているわけですから、まもなく国産の紙巻きタバコが生産されていくことになります。

国産の紙巻きタバコ第一号は彦根藩(現在の滋賀県)の下級武士だった土田安五郎によって明治五年(1872)に製造されました。当初は輸入された帽子の薄い包装紙を使って巻いてみるなど試行錯誤を重ねたようです。その結果100本3銭くらいの安い価格で販売できるようになりました。

翌明治六年(1873)ウィーンで開催された万国博覧会に日本人二名が出向き、全く別々に巻き煙草の製造器械を購入、帰国した後、紙巻きタバコの製造を始めます。

が、二名とも数年で廃業したところを見ると、品質が追いついておらず、国産の紙巻きタバコは人気がなかったようです。一方、た土田安五郎はこつこつと製造を続け、明治十四年(1881)には「第2内国勧業博覧会」にタバコを出品し、有功賞牌を受賞するまでになりました。

そのあたりから文明開化を代表する「ハイカラ」なシンボルとなって次第に普及していき、日清戦争のころ大きく普及しました。戦争で紙巻きタバコが普及するというのは、戦場で吸うのに適しているからでしょうか。

紙巻きタバコの話、続きます。

Smoking on the water6

武士による「無礼討ち」というものが認められていた時代です。

屑屋は真っ青になり、ひれ伏して非礼を謝りますが、若侍の怒りは収まる様子を見せません。周りの乗客も「関わり合いになって自分の命が危うくなっては」と黙ってしまっています。中間に槍を持たせて舟に乗っていた七十過ぎのお武家が、この様子を見かねたのか仲裁に乗り出します。

煙草と煙管

「お腹立ちはごもっともだが、取るにも足らぬ町人を手討にしたところで貴殿の恥 周りの方々も迷惑いたす 屑屋になりかわって拙者もお詫びいたすゆえ、どうか勘弁願いたい。」
ところが若侍は仲裁に応じるどころか、余計に怒りだし、今度はお武家に果し合いを挑む始末。
最初は相手にせず、断っていたお武家ですが、若侍のあまりのしつこさに、「それではお相手するが、ここ(舟の上)では皆が難儀(迷惑)するゆえ、岸に戻ってそこでお相手いたそう」

今なら、車内(舟内)のトラブルで渡し舟大幅遅延、といったところでしょうが、この時代には運行ダイヤはありません。舟はもと来た桟橋に向かって戻ります。
舟の上では、周りの乗客が野次馬根性丸出しで、どっちが強い?「そりゃ若い侍よ」など、勝手に談義したりしています こういう野次馬の騒ぐ下りと、果し合いが始まろうとする緊迫した雰囲気との緩急・落差で噺家巧拙が出るような気がします。
そうこうしているうちに舟は起点の桟橋近くまで戻ってきました。
若侍は、さあ勝負だとばかり、舟から桟橋に飛び移りますが、お武家は降りようとはしません 若侍が飛び移った反動で舟が少し岸から離れたタイミングで、手に持った槍の石突(穂先とは逆の根元の部分)で岸をとん、と突きました。
見る見るうちに舟は岸から離れます 桟橋には置き去りにされた若侍が一人・・。

あ、一人桟橋に遺された・・・

慌てて「卑怯者、もどってこい」と叫びますが、当のお武家は、「これがすなわち巌流島(がんりゅうじま)の計略じゃ」

周りの乗客は拍手喝采、取り残された若侍に向かってはやし立て、からかいます。すると、若侍やにわに裸になると短刀を口にくわえ、川に飛び込みました。

舟縁に浮かび上がった若侍に、お武家は「欺かれたのを無念に思い、ここまで泳いで舟板穴をあけて沈めに参ったのか?」

すると若侍、「なぁに、さっきの雁首を探しに来た」

江戸時代のたばこの話はここまで。次回は明治の煙草宣伝合戦をご紹介します。

Smoking on the water5

岸柳島(がんりゅうじま)は、古典落語の一つで、元話は安永二年(1773)の笑話集「坐笑産」中の「むだ」という一節から発生した噺です。前回ご紹介した煙管の形状を思い浮かべると噺への理解がより深まります。


現在隅田川に「厩橋」がかかっている場所は、江戸時代には橋はなく、「お厩の渡し」と呼ばれる渡し舟が東西岸間の往来の便を担っていました。
この場所、西岸には「浅草御蔵(あさくさおくら)」という幕府が管理する米蔵があり、少し上流にはこれも幕府管理の厩屋もあって結構な要所でした。因みに「蔵前」の地名は、この河岸近辺を「おくらまえ」と呼んでいた事に由来します。

(この先演目のネタバレとなりますのでご注意ください)


さて、この渡し舟が、船着場から出ようとする直前、年の頃二十三四の侍が舟に飛び込んできます。今でいうと「駆込み乗車」、いや乗舟といったところでしょうか。侍は横柄な態度で周りを押しのけ、舟べりに陣取ります。

渡し舟(これは矢切の渡しの渡船です)

舟は岸を離れ対岸を目指して進んでいくところ、侍は煙管で一服。吸殻をはたき落とそうと、煙管で舟べりを叩いた瞬間、羅宇と雁首のつなぎ目が緩んでいたのでしょうか、煙管の雁首が外れて川の中へトポン。

「雁首」が川の中へ落ちてしまいます

若侍は「雁首を探すから、ここで舟を止めろ」と船頭に命じますが、船頭から、「この辺は川底まで深い場所です。その上今は引き潮で流れも早く、小さな雁首一つを探すなど、とてもとても」
若侍はいかにも残念そうに水面を眺めます。すると舟に乗り合わせた屑屋が、よせばいいのに商売っ気を出して、「雁首のないその煙管、買い取らせてもらえませんか?」などど言ったものですから、これが若侍の逆鱗に触れてしまいます。

「無礼者!そなたのような町人に侮られるいわれはないわ、落した雁首と引き換えに、お前の雁首をよこせ!」と屑屋を無礼討ちにする、と激高します。

舟の上は蒼然としますが、その続きは次回に。

Smoking on the water4

刻みたばこの製法についてご紹介してきましたが、これを入れる袋と、喫煙具である煙管(キセル)を入れられるよう、専用の筒状の袋を合わせて持ち歩けるようにしたのが「煙草入れ」で、時代が下がるとともに機能性だけでなく、装飾性も増していきます。

これは、江戸幕府から庶民が着飾ることを禁止する「倹約令」がたびたび発せられたことで、衣服以外のこうした小物に「粋」を利かせたものでしょう。

煙草入れいろいろ 左上が「提げ煙草入れ」中央下が「腰差し煙草入れ」

一方で喫煙具にあたる煙管ですが、当初のものは、煙草を詰めて火をつける「火皿」を含む「雁首(がんくび)」の部分と、口をつける「吸口(すいくち)」は主に金属で作られます。その二つを筒状の「羅宇(らう)」で繋げました。この形の煙管を「羅宇煙管(らうきせる)」と呼びます。

「羅宇(らう)キセル

「羅宇」は羅宇の語源は、羅宇国で産出する竹(黒斑竹)を使用していたから、といわれます。羅宇国とは現在の「ラオス」を指します。煙草を吸うとヤニが付着するので手入れが必要です。江戸時代には、煙管(キセル)の修理と清掃が専門の職人、「羅宇屋(らうや、或いはらおや、とも)」という職業がありました。昭和の東京オリンピックが開催された昭和三十九年(1964)にも、まだ東京に4軒の「羅宇屋」が残っていたといいますが、平成十九年(2007)頃には東京最後の羅宇屋さんも廃業されたようです。

「羅宇キセル」に対して全体を金属(ガラスのものも)で作った「延べ(のべ)キセル」が造られ、表面に精巧な彫刻が施されるようになっていきます。こういうところにこだわるのが、江戸っ子の「粋」として誇ったものなのでしょう。

ちょっと珍しい煙管として「けんか煙管」といわれるものもありました。

けんか煙管

全体が鉄でできており、通常の煙管と比較して明らかに太く重く作られています。(長さは30-50㎝位で、これは花魁などが使った煙管はもっと長いものがありました)江戸時代に帯刀を許されなかった町奴が護身用に携帯していたもので、「警棒」のように打撃用にも使用したのでしょうか。

高校のころですから、今から四十年くらい前に、NHKで「なにわの源蔵事件帳」という時代劇(といっても維新後の大阪が舞台なので明治初期?)があり、故桂枝雀師匠がこんな感じの煙管を十手のように使っていたような記憶があります。

本日は喫煙具についてご紹介しましたが、次回はこの煙管が主題の落語「岸流島」をご紹介します。

 

Smoking on the water3

手刻みによる製法は、刻み専門の熟練職人が頑張っても一日で一貫目(3.75KG、普通の職人だとその7割くらい)の葉を刻むのがやっとでした。これでは増えていくたばこの需要に追いつきませんので、生産効率を高めていく必要が出てきました。

まず、19世紀初頭に四国の池田地方で、「かんな刻み機」が開発されたと言われます。

寛政12(1800)年ごろ開発されたと伝わる「かんな刻み機」

木材で組まれた箱(上の写真で四つの穴の開いた部分)にブロック状に固めた葉たばこを詰め、それを最上部のかんなで削る仕組みになっています。器械の下部に踏木(ふみき)と呼ばれる棒が設けられ、これを踏むとたばこのブロックを上に送り出されて、たばこを素早く刻むことができる仕組みです。

これにより、一日三〜五貫目(約11kg〜19kg)のたばこを刻むことができたといいますから、生産効率は大きくアップしました。ただ、この器械で刻むためには、先に書いたようにたばこを材木のようにブロック状にするため、たばこの葉の束に油を塗って固めていました。そのため、塗られた油がたばこの風味を損ねてしまう、という欠点がありました。そういう意味で高級品の製造には向かず、廉価なたばこの製造に使われたようです。

文化年間(1804-18)に開発され、嘉永年間(1848-54)ごろから普及していったといわれるのが、「ぜんまい刻み機」です。

ぜんまい刻み機

上の写真の「Do not touch」の親指の先あたりに、すりこ木のような棒が横に設けられています。これを「撞木(しゅもく)」と呼びます。(お寺の鐘をつく木も同じく「撞木」で、おそらくそこから来た呼び名かと思われます)「撞木」を上下させると、器械の中に仕込まれたたばこ包丁の葉が上下します。分銅の重さを利用して歯車を動かし、包丁の上下の動きに合わせてたばこの葉を送り出すしくみになっています。

この方式は、たばこを固める必要がないことから、「ぜんまい刻み機」のような風味を損ねる心配がありません、そのため上物と呼ばれる高級品製造に使用されました。ただ、効率としては一日で一貫目、ということで、普通の職人が熟練の量に達する効率アップにとどまっています。

たばこの話、続きます。

Smoking on the water2

この稿で紹介する喫煙具その他の写真は、墨田区の「塩とたばこの博物館」で撮影したものです。この博物館、昔は渋谷にありましたが、老朽化と手狭になった(収集物の増加が原因のようです)ことにより、平成二十七年(2015)から現在の場所で開館されています。たばこに関する(塩もですが)歴史を学ぶことができます。

さて、現在の喫煙は紙巻たばこが主流で、電子たばこもその形を踏襲していますが、江戸時代はというと、前回ご紹介した通り、刻み煙草を煙管(キセル)に詰めて火を点けて一服します。このたばこを刻む、という行為ですが、当初は手に入れた葉たばこを自分で刻むか、露店で刻みたばこを購入したりしていました。

それが、17世紀半ばの四代将軍家綱の時代になると、「たばこ屋」が出現します。つまり、葉たばこを刻んで売る、製造と販売を行う専門店が現われ、増加していきました。

刻みたばこ屋 家族単位で営まれることが多かったようです

「かかぁ巻き ととぅ切り」といって、おかみさん(かか)が葉たばこの下準備をし、主人(=とと)が葉たばこを刻む形式の、「家内制手工業」で営まれました。

また、この「刻む」という行為、当初は粗く刻んだものが売られていましたが、刻みが細くなるとたばこの味がまろやかに(マイルドに)なることから、江戸時代の半ばを過ぎると、「こすり」という呼び方で細刻みが登場します。

上の写真 刻む主人の拡大

細刻みが発達したのは、喫煙の風習のある国々の中でも日本だけのことで、このあたり、日本料理のような繊細さをたばこにも求めたからなのでしょうか。

この細刻みは「たばこ包丁」という専用の刃物の進化をもたらします。元々葉たばことともに輸入された刃物を使用していましたが、そこに日本刀の技術が加わり、特に堺の包丁は切れ味・耐久性などに優れていたことから、ついには幕府の専売品にまでになりました。

とはいえ、職人が包丁で刻めるたばこの量は知れたもの、全国で増大する刻みたばこの需要には追いつかなくなってきました、そこで生産効率を上げるため、器械化(機械化ではありません)が発達していきます。この話は次回に。

Smoking on the water

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます
私は煙草を嗜みませんが、落語で扇子を煙管(キセル)に見立てて、煙草入れ(架空)から刻み煙草を詰めて(これも煙草入れに見立てた手拭いから取り出します)火を点け、一服しては灰を落とす、というおなじみの落語の所作は好ましく思えます。

「芝浜」の波打ち際で一服するシーンや、「あくび指南」で船の上で一服しながらあくびをするシーンなど、ゆるやかな気分で安らいだ雰囲気が醸し出されます。

煙草盆 煙管(キセル) 刻み煙草 煙草入れ 江戸時代の喫煙具

いくら嫌煙が進んだところで、落語のこうしたシーンに目くじらは立てないでいただきたいものです。

さて、こうした憩いの間を演出する「たばこ」ですが、大航海時代に南米からヨーロッパに伝わり、日本には鉄砲伝来と同じ時期にポルトガルから伝わりました。

タバコの葉

すでに16世紀末期から徳川時代の初期には、鹿児島県の出水(いずみ)や指宿(いぶすき)、長崎付近で煙草の栽培がおこなわれ、それにつれて喫煙の習慣も全国に広まっていきますが、幕府は「禁煙令」を発するだけでなく、農民に対してたばこ栽培の禁止令をも発しています。

この禁令の背景は、ひとつに「風紀の乱れ」をの抑制が挙げられます。反社会的な浪人集団=傾き者(かぶきもの)が京の街などに現れ、人々に乱暴狼藉を働いていました。これらの集団のシンボルが渡来した新しい習慣である「喫煙」であったことから、彼らの統制のために禁煙令を出した、というもの。

もう一つの理由が、喫煙の普及により、米より実入りの良い煙草栽培を選ぶ農家が増え、年貢米現象を懸念した幕府が、農家による「たばこ」の栽培を禁じた、というものです。しかし、幕府による度重なる禁令にも関わらず、喫煙の習慣が止むことはありませんでした。為政者の側も、「たばこ」に対して課税を行うことで税収を確保するなどしたことで、徳川綱吉の時代を最後に、たばこに関する禁令の類は出なくなりました。

江戸時代のたばこの話、続きます。