おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

「防備に何が要るやろか?」「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」2

黒船が去ったことで一応の危機は去りましたが、この事件で大阪湾の無防備さが際立つことになりました。

本陣が置かれた「天保山」の名前は、この事件の二十数年前の天保年間に、安治川(当時は淀川の本流にあたりました)河口の土砂を浚う工事(浚渫工事)の際の土砂を河口に積み上げられてできた築山にあたることに由来します。この高さ20Mほどの小山には松や桜の木が植えられて茶店なども置かれ、有数の行楽地となっていました。

事件の二年後の安政三年(1856)この天保山に台場が築かれることになりましたが、工事はなかなか進まず、竣工したのは元治元年(1864)までかかったとのこと。品川台場に比べて全くスピード感が感じられませんね。(天保山は現時点でまだ訪れておらず、写真がありません)

さて、天保山の南約8.6kmのところに、堺台場があります。港(旧港)につながる運河を挟んだ南北に安政二年(1855)頃から造られた、とありました。当初の工事は堺奉行の命によって造られた簡単なものだったようです。

南台場石垣跡

築造のスタート時期が~頃というところ、なんともアバウトな感じですが、元治元年(1864)~慶應二年(1866)の大改築により、彦根藩が工事を担当し、当時最新の稜堡型砲台に生まれ変わりました。

運河北側の北台場はそれより早く安政元年(1854)に着工、翌年には完成しています。

北台場跡案内板

北台場跡は石垣のような跡らしいものも見当たらず、案内板が置かれているだけでしたが、運河を挟んで南北の跡地を見るには結構な手間がかかりました・・(港内をぐるっと回らなければならず・・)

途中、日本最古の木造洋式灯台である旧堺灯台や、私の子供時代の大河ドラマ「黄金の日々」の主人公、呂栄助左衛門像など見どころも多いのですが。この日はにわか雨に振られ、落ち着いて見られない残念な堺行でした・・

灯台 明治十年(1877)の築造なので、南北の台場より後のものです

呂栄助左衛門像 港に入ってくる船に手を振っているのでしょうか

品川・堺と、取り払われた跡のような場所が多いですが、次回は「砲台」として残されたものをご紹介します。

「防備に何が要るやろか?」「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。

幕末、ロシアのプチャーチンが、日本と国交を結んだ(日米和親条約)話は、江川太郎左衛門英龍のところでご紹介しました。
クリミア戦争の影響もあって、東アジア一帯を転々としながらの航海であったことも述べましたが、プチャーチンの率いるロシア船が日本で来航した場所は、長崎・箱館・大阪天保山沖・下田という順です。(戸田には滞在しましたが「来航」ではありません)


この項ではペリーの浦賀来航以上に幕府を驚愕させた、嘉永七年(=安政元年:1854)9月の大阪天保山沖への来航と、その後、大阪周辺で大阪湾海防のために築造されたお台場をいくつかご紹介したいと思います。
日本史ではあまり紹介されることはないものの、天保山沖への来航が大騒ぎになるのも当然のことでした。

ディアナ号は天保山の沖、約4~5kmのところに停泊しました

ペリーが停泊した浦賀は三浦半島の先、侵入したといっても神奈川県の南端で、江戸までの距離も50km以上ありました。一方、プチャーチンは「天保山沖の40丁から50丁沖」といいますから、大阪湾のど真ん中に入り込まれてしまっています。

驚いた大阪城代は、大坂町奉行、船奉行などの配下に命じて、天保山が面した安治川河口に大小の船を並べさせます。ディアナ号の上陸や川を遡上することを阻止するためで、そのために5000艘以上の舟が駆り出されました。また警備のための人員は、大坂に蔵屋敷を持つ約100の藩の中で89の藩と旗本が4家から集められ、全部で約1万5千人が天保山を本陣として、周辺の沿岸一帯に陣を敷きました。

大阪にこれほどの規模で陣が敷かれたのは、大坂夏の陣以来であったかも知れません。プチャーチンが大阪に現れたのは、長崎での交渉進捗の遅さにいら立ち、天皇の住む京都に近い「聖域」に入っていくことで、早々にロシア側のペースで提案に応じると予測したためです。しかし、幕府からは交渉地を下田として指定され、16日の滞在の後、ディアナ号は大阪を後にしました。

名番組に挑戦を~「名建築で昼食を」を推してます

水曜深夜(つまり木曜にかけて)に放送されている「名建築で昼食を」(テレビ東京2:35~ テレビ大阪0:00~)を楽しみに観ています。放送時間が時間なので録画での視聴ではありますが。(逆にこの時間リアルタイムで視聴されている層ってどんな方たちなんだろう)

シリーズ1 東京編第二話で紹介された「自由学園 明日館」

現在放映されているのはシリーズ2にあたる「大阪編」で、全六回の半分が先週終わって折返ししたところなんですが、私は関西生まれにもかかわらず「大大阪時代」(関東大震災以降昭和初期まで人口が大阪>東京だった時期をそう呼ぶそうです)という言葉も知らず、これまで紹介されてきた建物の名称すら聞いたこともなく、不勉強を恥じる次第です。(次回7日深夜の「日本銀行大阪支店」は流石に名前と写真レベルでは知ってました)
最初のシリーズ(まさか大阪で続編を作るとは思っていなかった!)は東京編で2020年8月から全10回で放映されていたそうですが、私がこのドラマを知ったのは今春のこと。ふとアマプラのドラマのアイコンで見つけて気になり、試しに第一話を観てすぐ連続視聴しハマりました。

朝香宮邸(庭園美術館)「香水塔」(第四話)

さて、題名だけ見ると建築物紀行とかグルメ紀行が連想されますが、一話完結の連続ドラマです。30分の番組の中で、日常(プロローグ:ドラマパート)→建築(本題:ドキュメンタリーパート)→日常(エピローグ:ドラマパート)という構成。
30分というのが、長すぎず気楽に見られる絶妙な長さとなっています。主演は池田エライザさんと田口トモロヲさん。このドラマパートは本編の建築には干渉せず、主人公の内面を語るちょっとしたスパイスみたいな部分です。メインのドキュメンタリーパートでは田口さん(過去「プロジェクトXのナレーションをされてました)が建築の解説やエピソードを語り、エライザさんが素の感想を述べる、という感じで進みんでいきます。(それぞれの建物の管理側の方も毎回案内役として出演されます)

日本最古のビアホール 銀座サッポロ(第三話)

ここのパート画像がとにかく美しい!この企画を本当に好きでやってるんだろうな、というのが伝わってきます。自分でもこんな写真が撮れれば最高ですが…(ロケでないと無理な場所や構図もありますが、これはしようがない)
カメラマン(監督さんかも知れません)さんは、階段を真上から撮ったり、手すりのデザインを必ずアップにしたりと、色々拘っているポイントを探るのも一興です。
東京編10回のうち、知らない場所については行ってみるきっかけとなりそうですし、見たことがある場所でも再訪して見直したい、と思えるドラマ(?)です。
今度関西に行った時には何箇所か廻ってみたいと思うので、大阪編も残すところ後3回、候補地探しも兼ねて楽しみに観たいと思っています。

虎は死して皮を残す (英)龍は死して永遠(とわ)に残る4

韮山反射炉のすぐ横に川が流れています。反射炉建造の際、この古川を改修し、流れを反射炉側へ川筋を曲げました。

改修により流れを曲げられた古川(写真左側)

反射炉周辺の地図 古川が「へ」の字に湾曲していることがわかります

曲げた川から取水口から木樋を通して水車を廻し、その動力によって砲身に穴を穿ちました。反射炉内の案内板に当時の錐台小屋(すいだいごや:砲身の穴を繰り抜く作業を行う場所)や動力源の水車のCG写真が示されていました。

平成二十七年(2015)に韮山反射炉は「明治日本の産業革命遺産」として登録されてましたが、この改修した区間約144メートルも世界遺産に含まれています。

古川についての説明板

この反射炉では、安政四年(1857)の築造完了後、炉には火が入り、銑鉄の溶解と大砲の鋳造が始まりました。銑鉄については島根県の石見(いわみ)と岩手県南部から入手したものが原料として使われました。翌年3月30日には、最初の大砲である18ポンド砲が完成し、その後の試射についても成功しています。その後の7年間でこの鋳鉄製18ポンド砲4門の他、青銅製のカノン砲やホウイッスル砲など46門(記録上)が製造されました。完成した大砲のうち、28門が品川台場に配備されましたが、これらの大砲は沼津港から伊豆半島を回り、約1ヶ月かけて江戸大森に陸揚げされたようです。

わずか16歳で家督を継いでから7年後の文久二年(1862)に、英敏も享年24とうい若さでこの世を去ります。父の担った仕事と、時代の風雲の重圧が彼の寿命を縮めてしまったのでしょうか。末弟であった英武がわずか10歳にして家督を継承、韮山代官となった他、鉄砲方や講武所の教授方にも任命されました。

英龍が遺した動植物の絵 動乱に巻き込まれなければ趣味人として一生を終えたかも

さて、元治元年(1864)8月に韮山反射炉の閉鎖が決定します。せっかく築造した反射炉でしたが、大小砲すべて幕府が直接掌握して行うべき、との名目で、砲の製造は江戸の関口製造所・滝乃川反射炉で行うことになったためです。江川家私営となっていた反射炉は風化が進んでいましたが、明治四十一年(1908)見かねた韮山村有志が反射炉敷地を買い、陸軍省に献納したことで再工事され、翌年に落成しました。以降、韮山反射炉保勝会が維持・管理を行ない、現在に至っています。

英龍の富士の絵

英龍が塾生を連れて天城・箱根に猟に出た際に富士にあたる朝日を描き、和歌を詠んだものが残されています。

里はまだ 夜深し富士の 朝日影

夜明け前のもっとも暗い時期にあって時代に翻弄されながらも、多くの仕事を成し遂げた英龍のことを最も理解していたのは地元韮山の人々でした。この一連の話の最初に触れましたが、韮山の方々の「江川愛」が感じた伊豆旅行でした。

江川太郎左衛門英龍の話は以上です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。

 

虎は死して皮を残す (英)龍は死して永遠(とわ)に残る3

現在の韮山反射炉は、外壁に巡らされた✖が印象的ですが、これは昭和三十二年(1957)に補修された際に鉄骨トラスを設置して耐震用の補強を行ったためで、当初は煉瓦を積み上げた表面に漆喰が塗られていたようです。ちょっと想像がつかないかも知れませんが、茨城県那珂湊に復元された、水戸藩反射炉を見るとイメージできるかと思います。

茨城県那珂湊反射炉(復元)ほぼ同じ時期に建設されました

もっとも、那珂湊反射炉水戸藩内の内紛で殆ど稼働できず、藩内の内戦「天狗党の乱」により破壊されてしまっています。外観で共通するのは上に高く伸びた煙突ですが、これは煙突にを高くすることにより自然通風を強力にし、燃焼のための空気の取入れをスムーズにする意味があります。

反射炉の構造図

鉄を溶かす「炉」として重要なのは火を燃やす部分と、鉄を溶かす部分です。

右の穴が燃料の燃料を投入する穴(焚口) 左が銑鉄を投入する穴(鋳口)です

燃料については、木炭・石炭が使われ、「焚口」という穴から燃焼室内に投入し、火力を維持します。「鋳口」から鉄や銅など炉内で溶かす金属の塊を投入します。炉内の天井はドーム状になっていて、熱を反射させることで1200~1500度の高温を発生させ、鉄を溶かし不純物を取り除きます。

溶けた鉄は置かれた鋳型に流れていきます(鋳台)

流れ出た鉄は穴から流れ出て、大砲の鋳型に流れ込みます。それを冷却することにより、穴の開いていない大砲の外形が出来ることになるのですが、鋳型を冷やしたり、穴をあけたり(穿孔)する動力として水が必要となるわけです。(当時は電力はおろか、蒸気機関も導入されていないわけですから)

反射炉の構造の話、続きます。

 

虎は死して皮を残す (英)龍は死して永遠(とわ)に残る2

500人のロシア人たちは3回に分かれて帰国しています。ヘダ号が完成する1ヶ月ほど前の2月25日に、159名の乗組員がアメリカの商船カロライン・E・フート号に乗船して戸田港を後にしています。プチャーチンが商船の船長にカムチャッカへ送ってもらうべく傭船契約を持ちかけ、契約が成立し第一陣が出発したのでした。

そして第二陣は、出来上がったばかりのヘダ号にプチャーチン始め48名が乗り組み、3月22日に戸田港を出発しました。最後の第三陣は6月3日、ドイツ・ハンブルグの商船グレタ号を傭船し残りの約278名が出発しています。

しかし、この第三陣だけは運悪く、航海途中の6月19日に2隻のイギリス軍艦に出くわしてしまい、乗組員たちは捕虜として捕らえられてしまいます。彼らが解放されたのは、翌年クリミア戦争が終わってからでした。

第二弾のヘダ号は6月20日無事にロシアのニコラエフスク港に到着し、翌年の1856年にロシアの軍艦オリヴーツァ号に曳航(えいこう)されて下田に帰還しています。

その後、この船をモデルとして「君沢形」の西洋式帆船とそれを縮小した「韮山型」が建造され、品川台場にも配備されました。

第三台場船着場 近くまで君沢型・韮山型の帆船が来ていたのでしょうか

一方、反射炉の建造は西洋帆船ほど順調ではありませんでした。英龍存命中の嘉永七年(1854)の安政東海大地震ではそれほどの損傷・被害も受けませんでしたが、翌年7月29日に伊豆方面を襲った暴風雨では、積み上げた煉瓦を接合していた粘土が剥がれて崩落してしまいました。前年の地震でのダメージと暴風雨が原因だったと思われます。

この崩落により、建造途中まで築き上げたものを全部取り崩して改めて築き直す、ということを行っています。この工事の指揮をとったのがわずか16歳で跡を継いだ英敏でした。その際、築造地周辺の土で煉瓦を焼き作業費用や効率を上げる工夫なども行っています。そうした曲折を経て、安政四年(1857)11月に韮山反射炉は完成しました。

親子二代かかって韮山反射炉は完成しました

次回は、この反射炉周りをご紹介していきます。

虎は死して皮を残す 龍は死して永遠に残る

英龍が亡くなったのは正月16日ですが、その死の公表(発喪)は一か月以上先の翌2月26日のことでした。後継ぎ(継嗣)の手続きがされる前の急死であったことから、公表を遅らせたのです。正月22日、英龍の遺体は江戸の屋敷を出発し韮山に向かいましたが、棺を長持の中に入れ、一行は荷物を運ぶ行列であるかのように東海道を下っていきました。

その死を秘しての韮山への帰郷でしたが、支配地である伊豆の人々には伝わったのでしょうか、長持を拝み、涙を流して地に伏して迎えたと伝わっています。「世直し江川大明神」と称えられた名代官ならではのエピソードですね。

25日に韮山に到着、27日に菩提寺の本立寺に葬られました。

本立寺の江川家墓地

英龍の跡を継いだのは三男の英敏です。長男・次男とも早世したためですが、この時わずか十六歳でした。代官として支配地の治政を行う他、反射炉、西洋船建造、お台場築造など英龍の志半ばとなっていた事業は英敏の代で完成されています。

これは英敏の能力もさることながら、英龍が韮山塾や代官の業務を通じて後進を育て、その人々がうまく英敏を支えた、というのが実際のところではないでしょうか。

まず、英龍が死去した約2ヶ月後の3月15日に西洋式帆船が竣工します。

総長24.57m、幅7.02mで排水量100tのこの船は、「ディアナ号」(それぞれ 53.33m、14.02m、2000t)に比べると小さなものでしたが、言葉や度量衡の単位の違いを乗り越えてわずか3ヶ月で完成させたこの船を、プチャーチンはこの地への感謝を込めて「ヘダ号」と名付けました。

ちなみにプチャーチンはこの間に日露間の外交交渉も進め、安政元年(1854)12月21日に日露和親条約の締結に成功しています。自身の船を失った状態で日本人の好意に感謝しつつも、しっかりと自国の主張を通し外交官の役割を果たした彼の業績も称賛に値するものといえます。

さて、小さな「ヘダ号」に乗ることのできる人員は約50名。戸田に残されたロシアの乗組員は約500名。彼らは故国ロシアの地に帰り着くことができたのでしょうか。その話は次回で。