おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

彼岸 GOGO4

最初に最もメジャーな別名「曼殊沙華」を紹介してしまいましたが、地方名まで含めると1,000以上の別名があるそうです。ある意味日本全国で花が咲き、生活になじんだ身近な花であることの証左といえるでしょう。

その色から名付けられた思われる別名は、そのものズバリの「アカバナ」(兵庫、沖縄)や「ヒマツリ」(滋賀)、「チョウチンバナ」(関東以西各地)、「ハナビバナ」(群馬)などがありました。

「ハナビバナ」については、鮮やかな赤色の他に、外に伸びた花弁や雄しべ雌しべの形状からの連想といえます。形状からの別名でいうと「テンガイバナ」(福島、京都、和歌山など)というものあります。漢字でいうと「天蓋花」。「天蓋」とは、元々はインドで貴人の外出時に頭の上を覆った飾られた傘に由来して、お堂の中でお坊さんや仏像の上部を覆った飾りを言います。

仏像の上、正方形状の覆いが「天蓋」です(東京芸大作成の法隆寺三尊模造)

また、「キツネハナ」「キツネノカミソリ」(各地)等、「キツネ~」という名称も30種類以上あります。これは、炎のような形状を「狐火」に見立てたことに由来する別名とされています。

真上から撮った彼岸花 (八千代市 村上中央緑地)

このあたりまではマイナスイメージがあまり感じられない別名ですが、この先は・・・「シビトバナ」「ジゴクバナ」(いずれも各地)、や「ソウレンバナ」(中四国他)「ハカバナ」など、死をイメージした別名、また、球根の持つ毒性から、「ドクバナ」「ドクユリ」などの別名が非常に多く伝わっています。

花と葉を同時に見ることはできないことから、「ハミズハナミズ」(北陸地方等)や「ステゴバナ」(福岡等)の別名もあるようです。

「彼岸」という名前自体が仏事を連想させるように、お寺の境内や、墓地にも「彼岸花」がよく見られますが、実はこれにも理由があるのです。こちらについては次回に。

 

 

彼岸 GOGO3

彼岸花の別名として最もよく知られているのは「曼珠沙華」(まんじゅしゃげ・まんじゅしゃか)でしょう。私の年代だと、山口百恵さんのヒット曲としても知られます。

「まんじゅーしゃかー 恋する女は まんじゅーしゃかー」(小岩 宝蔵院)

法華経」の中に

為諸菩薩説大乗経 名無量義 教菩薩法 仏所護念

仏説此経已 結跏趺坐 入於無量義処三昧 身心不動 

是時天雨曼陀羅華 摩訶曼陀羅華 曼殊沙華 摩訶曼殊沙華 而散仏上 及諸大衆

という一節があるのですが、意訳すると、

「(お釈迦さまが)多くの菩薩のために、大乗経に書かれた『無量義』『教菩薩法』『仏所護念』と名付けられた経典を説かれた。仏がこの経典の説法の時、結跏趺坐(座禅の時の坐る姿勢)され、心身とも不動であった。この時仏と菩薩たちの上に、天より『曼陀羅華』『摩訶曼陀羅華』『曼殊沙華』『摩訶曼殊沙華』の華が降ってきた。」

ここに出てくる「摩訶」は「大きな」という意味なので、「曼陀羅華(まんだらげ)」と「曼殊沙華」+それぞれの大きいもの、ということです。

いずれも伝説上の天界に咲く花で、「曼陀羅華」は美妙な花色の薫り高い花で、見る人に喜びを与え、「曼殊沙華」は柔らかな花びらの純白の花で、見たものの悪行を払う、とされています。

白い彼岸花もあるにはありますが…(八千代市 村上緑地公園)

あれ、「純白の花」じゃ、≠彼岸花ということになってしまいますが、サンスクリット語の「manjusaka」が「赤い」を意味するため、法華経が中国に渡ってからは、「曼殊沙華」は赤い花として解釈されました。

先に紹介した山口百恵さんの「曼殊沙華」のサビの部分の歌詞に

「マンジュ-シャカ 恋する女は マンジュ-シャカ 罪作り 白い花さえ 真紅に染める」というのがあります。

作詞の阿木燿子さんは、このことをご存じだったのでしょうか。それにしても花の色の解釈の変化を、女性の情念の変化として「白い花さえ 真紅に」とするあたり、すごく奥深い歌詞だと思います。

「曼殊沙華」だけでこの稿が終わってしまいましたが、彼岸花の別名、続きます。

 

 

彼岸 GOGO2

彼岸花は独特な形をしています。花弁がくるっと反り返っているだけでなく、雄しべと雌しべが髭のように花弁より外に突き出て、線香花火のようにも見えますし、上から見ると口を開いた生物が、触手を周りに伸ばしているようにも見えます。英語で「red spider lily」の名前があるのは、後者のイメージを蜘蛛に見立てたのでしょう。

鮮やかな真紅のさることながら、花の形も印象的です(松戸 祖光院)

以下に述べる性質は、日本の彼岸花に特有の性質だそうです。

お彼岸の頃に一斉に咲くために、集団の暴力的な美しさがあります。その意味では、季節や花の色形は異なりますが、ソメイヨシノともイメージが被ります。

さらにソメイヨシノとの共通点が2つあります。

ひとつは、花を咲かせた後に葉が生えること。棒のような茎(花茎)の先に花が咲いていますが、一枚として葉がありません。秋の終わりに葉が伸びて翌年の夏に葉が枯れる、珍しい性質を持っています。

茎の先に花が咲いていますが、葉は生えていないのがわかります

もうひとつは、種を付けることがなく、球根が株別れして増えるか、球根が人の手によって植えられるかでしか増えていきません。ソメイヨシノも直接の子供を持たず、接ぎ木でしか増えない桜です。

日本の彼岸花ソメイヨシノと同様、すべて同じ遺伝子を持ったクローンであり、咲く時期が同じという共通点もそこから来ています。

秋のお彼岸の時期に一斉に咲くところから「彼岸花」の名前があるのですが、「これを食べると彼岸(死ぬ)しかない」という怖い一説もあります。実際に球根の部分にはアルカロイドを含んでいて、球根を誤って食べると、量によっては死に至ることもあるという強い毒性を持ちます。お寺の境内、特に墓地に植えられるのは、その毒性のある球根のために、埋められた死体が動物によって荒されるのを防ぐ効果があったから、ということだそう。

そのため彼岸花は、その特性にちなんだ別名を多く持っています。それについては次回で。

 

彼岸 GOGO

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。
秋のお彼岸のあたり、東京でも川べりの土手やお寺の境内で見かけるのが赤い「彼岸花」。花の色もさることながら、花の形も特徴的です。

都内 中川北側の川べりの彼岸花

新美南吉の童話「ごん狐」、私の中ではなぜだか「彼岸花」の赤いイメージが重なっています。新美南吉童話集が手元にあったので、作中にどのように表現されているか調べてみました。
結果は案外なもので、「彼岸花」の表記は二箇所だけでした。それも兵十(ごん狐のいたずら?の相手)の母親の葬列の行きと帰りのところ、場面としてはワンシーンのみ。

①墓地には、ひがん花が、赤い布(きれ)のようにさきつづいていました。

②人々が通ったあとには、ひがん花が、ふみおられていました。

その他「赤」の表記があるところは、兵十の家の「赤い井戸」(初秋以外の季節でも使われるので、彼岸花とは関係なさそう)のいくつかだけでした。
ちなみに「ごん狐」は南吉が最初に投稿したオリジナルと、現在伝わるものと2つ(話としては同じで、表現などに若干手が加えられたもの)あり、双方見比べましたが、「彼岸花の使われた箇所は同じでした。(上記の抜粋は後者です)

冷静に考えてみれば、花の咲く時期が短いわけですから、短い童話の中で、秋のお彼岸の時期などはほんの一部で、何度も出てくるはずがありません。
ここまで引っ張っておいて、なぜ「ごん狐」に「彼岸花」のイメージを(勝手に)持つようになったかは不明のままです。おそらくですが、子供の頃に見た絵本か、アニメの印象が心に残っているのかも知れません。

群集して咲くので、赤い色が際立って印象的です(葛飾奥戸宝蔵院)

あるいは、お寺の境内に咲く彼岸花と、「ごん狐」のbad end のイメージが重なっているのかな、とも思います。加えて、子供心に残りやすい色彩のイメージは、パステルカラーより、原色系の鮮やかさなのだろうか、とも。

前置きが長くなってしまいましたが、この稿では、これからの時期見頃を迎える彼岸花についてご紹介していきたいと思います。

「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」5

楠葉台場完成の2年後、慶應三年(1867)10月14日、第十五代将軍、徳川慶喜は大政を奉還します。その後12月9日に王政復古の大号令が発せられると、親徳川派の譜代藩・旗本の諸兵からは薩摩を討伐せよ、という声が上がります。衝突を避けるため、慶喜はひとまず幕府側の軍勢を大坂に退去させることとしました。

しかし、大阪城では主戦論がさらに高まり、一方で慶喜が御所への参内を命じられたことから、慶應四年(1688)正月2日から3日にかけ、京都に向けて約1万5千の軍勢が進軍します。(大政を奉還しているので、「旧幕府軍」と表記します)

鳥羽伏見の戦い勃発の地

当時、京都から大阪へは羅城門跡から鳥羽を通り淀へと通じる道が街道となっており、これが「京街道」「大阪街道」あるいは「鳥羽街道」と呼ばれる街道です。

3日午前、鴨川にかかる「小枝橋」の周辺で、街道を進む旧幕府軍先鋒と封鎖していた薩摩藩兵が接触します。といってもその時点で戦闘が始まったわけでなく、通行を求める旧幕府軍と京都からの許可を待つようにとの薩摩藩との問答が繰り返されました。

城南宮境内の「鳥羽伏見の戦いの後」案内板

問答は続き、業を煮やした幕府軍は午後五時頃、全身を開始し、強引に押し通ろうとします。一方薩摩藩は通行を許可しない旨を回答、直後に一斉に銃・大砲を発砲しました。この段階での戦闘を予期していなかった旧幕府軍は、この砲撃によって大混乱を起こします。この時点から「鳥羽・伏見の戦い」が始まったといえます。

この稿の本題は、「鳥羽・伏見の戦い」での楠葉台場についてですので、戦いの経過はいったん省略します。

鳥羽や淀方面で後退を余儀なくされた旧幕府軍は、「楠葉台場」と台場付近の「橋本陣屋」に集結し布陣を立て直そうとしました。

楠葉台場案内板

が、楠葉台場と対で造られていた対岸の「高浜台場」の津藩(藤堂氏)が旧幕府軍に対して砲撃を加えてきたのです。新政府軍は高浜砲台の守備に入っていた藩主の藤堂元施(もとひろ)に、新政府側に着くよう説得、これを受けて楠葉・橋本に向けて砲撃を加えたものでした。

前回触れたように、この台場は大阪側から入ってくる敵を防ぐための作りで、京都側からの攻撃は想定しておらず、更には対となる高浜台場からの攻撃もあり、この布陣を維持できずここから後退し大阪まで落ち延びざるを得ませんでした。

淀川の南北に造られた二つの台場は、外国からの攻撃を防ぐどころか、その台場を作った幕府滅亡のきっかけとなってしまったのは、実に皮肉な歴史の結末だと思えます。

関西の砲台・台場の話は以上です。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

 

 

 

 

「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」4

今回ご紹介する「楠葉台場跡」(くずはだいばあと)は一見目立った石垣もなく、芝生の広場のようです。

国史跡樟葉台場跡」の看板がなければ、単なる広場に見えます

平成二十三年(2011)国の史跡に指定され、現在「楠葉台場跡史跡公園」として整備されていますが、平成十七年(2015)に古文書からその場所が特定されるまでは発掘調査も行われていませんでした。

看板に書かれた「国史跡楠葉台場跡」の文字が、すぐそばを通る京阪電車の車窓に向けてその存在をアピールしているようです。

数分おきに京阪電車が通ります

京阪電車の本線は、大阪淀屋橋~京都出町柳を走っていますが、海沿いの路線はありません。また楠葉台場の最寄駅は「橋本」駅。京都府に入ってすぐの駅で、地図でいうとずいぶん淀川を遡った↓の場所です。(地図右上)

淀川を遡ってこんなに京都寄りの場所です

幕末に造られた台場・砲台は、海沿いに造られるのが普通ですが、内陸に入った河岸に造られた例は、この淀川左岸の楠葉台場と、対岸(淀川の右岸)の高浜台場のみです。

前回ご紹介した西宮砲台と同じく、この楠葉砲台も文久三年(1863)に建設が開始されましたが、外国船が淀川を遡って京都に攻め込むことが無いようにと、計画を建白したのは京都守護職松平容保で、勝海舟が奉行となり建設を主導しました。

この地への建設と同じ時期に、大阪~京都間の街道を付け替え、この台場の中に造られた番所を通るようにしています。

楠葉台場番所跡 向かって左が南側です

文久三年(1863)という年には前回ご紹介した馬関戦争の他、長州藩を朝廷から排除した八月十八日の政変などが起こっています。台場と隣接した場所に、淀川の通航監視のための船番所も設けられたことから、この番所は京都に長州藩士や攘夷浪士など、反幕府側の人物を京都に入れないための関門と要塞の役割を果たしていました。

南側の大坂方面から攻め上ってくる船や軍を迎え撃つことを想定して南側に防御と火力を集中する形で築かれ、慶應元年(1865)に完成しています。

他の台場・砲台と異なっているのが、この場所が実際に戦場となっていることです。その話は次回に。

 

「塞でんなぁ〜」「砲でんなぁ〜」3

品川台場を含め、これまでご紹介してきた台場は、、土塁や石垣が残っているだけなので、だいぶ想像力を働かさないと往時の姿をしのぶことができません。石垣だけで天守閣や櫓のない城跡のような感じでしょうか。

今回ご紹介する西宮砲台は、この場所に1基造られ、砂浜にいきなり砦が現われた唐突感があるものの、存在感を示しています。

浜(海)側から見た西宮砲台

高さ約12m・内径約17m・周囲53mという大きなもので、花崗岩御影石)を積み上げて造られています。表面が漆喰で塗り固められているので、一見するとコンクリートで固められた要塞のようにも見えます。

西宮砲台の案内板

西宮砲台の建設が始まったのは文久三年(1863)のこと。

日米修好通商条約など、安政五か国条約が結ばれたのが安政五年(1858)のことで、横浜・長崎・箱館の3港が翌年開港されています。が、国内で攘夷の機運が高まっていったことはご存知の通りです。

長州藩が下関(馬関海峡)を通る外国船に砲撃を加えたことから馬関戦争が、薩摩藩でも薩英戦争が勃発したのが、文久三年(1863)という年でした。

砲台の建設は勝海舟の指導の下、ここ西宮の他、今津(同じ西宮市内)、和田岬(神戸市兵庫区)、舞子(神戸市垂水区)に同じような砲台の築造が開始されました。

基礎工事として1,541本もの松杭が打ち込まれました。品川台場の項でも述べましたが、松に含まれている松脂が腐食に強いことから、基盤の杭には松材を用います。

外壁部分の石材である花崗岩御影石)は、備中国岡山県)の瀬戸内の島々から切り出されて海路で運ばれています。(「御影石」というくらいなので、神戸の「御影」で産出するのですが、御影から西宮までは陸路での運搬が必要で、海路より効率が悪かったようです)

内部は3層になっていて、1層部分は中央に防火用(もしくは砲身冷却用)の井戸が掘られ、床板敷の弾薬庫が設けられていました。

2層目には四角(方形)の穴が12個空けられています。11個は砲眼(大砲で四方を狙うための穴)で、残りの1個は外部より指示を受けるための窓となっています。ちなみに3層目の役割はというと、色々調べましたが結局はわかりませんでした・・

2層目に開けられた穴 中央の縦長なのが連絡用の窓でしょうか

この砲台には2門の大砲が据えられ、砲眼から砲口を向けて攻撃を行う構造です。

完成したのは慶応二年(1866)のこと。完成早々に空砲で試し撃ちを行いました。

が・・・砲煙が内部に充満してしまい、実戦には向かないことが判明してしまいます。そして実際に使われることのないまま(それでよかったのですが)明治維新を迎え、大正十一年(1922)に国の史跡に指定され、現在に至っています。

存在感はありますが存在意義はちょっと疑問な砲台です。次回は「海辺にない」台場をご紹介します。