伊能忠敬記念館に入ると、展示室に入る手前に彼が作成した地図と、人工衛星から撮影さ
展示室に入ると、時系列に彼の前半生である伊能家当主としての業績と、日
前半生についてはみなもと太郎さんの漫画「風雲児たち※12巻」
四十代後半くらいから、忠敬は息子に家督を継がせ、隠居の身で第二の人生を考えており、佐原を知行する領主に願い出ていました。しかし、経営者・名主としてもすぐれた彼の隠居を、領主は認めないまま、年月が過ぎていきます。
再度の隠居願いがやっと聞き届けられたのが、寛政六年(1794)、忠敬は49歳の時でした。翌年、暦学の勉強をするため江戸に出て深川黒江町(地下鉄門前仲町西側あたり)に住居を構えます。
ちょうどその頃、これまで使われていた宝暦暦がたびたび日食・月食の予測を外したことから評判が悪くなっていて、江戸幕府のプロジェクトとして改暦の動きが起こっていました。そのため、大阪で評判の高かった天文学者を招聘し、その一人が高橋至時(よしとき)です。
忠敬50歳、31歳の至時に弟子入りを懇願、熱意に圧されて弟子入りを許した瞬間、忠敬の後半生が決まったといっていいでしょう。
このくだり、あと少しお付き合いいただきますが、今日はこのあたりで。
ありがとうございました。