おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

伊能忠敬と高橋至時 江戸にて

ようこそのお運び、厚く御礼申し上げます。

伊能忠敬の偉業は誰しも認めるところですが、当時は幕藩体制の世の中、全国を歩き回るには幕府の許可がないと不可能です。佐原の名主として業績を上げていた伊能忠敬ですが、全国的には無名の隠居です。全国測量の白羽の矢が立ったのはどういう理由があったのでしょうか? 今回はその前提となる暦の話をします。

 

まず、現在の暦は太陽暦ですが、江戸時代は太陰暦(正確には太陰太陽暦)を使用していました。

太陽暦 地球が太陽の周りをまわる周期を1周期とする暦

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地球儀 本郷給水所公苑

太陽暦 月の満ち欠け、新月(朔月)から次の新月までを、ひと月周期とする暦です

太陽暦は約365日、太陰暦はそのままだと約355日しかないので、年を経ると、暦と実際の季節にずれが生じてしまいます。(三年で一月ずれますよね)          そこで「太陰太陽暦」という閏月を入れて修正する暦が使われていたのでした。

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先輩が描かれた月の絵を使わせていただきました

現代から見るとずいぶん面倒な太陰暦が基本となったのはなぜでしょう?それは単純に「月の満ち欠けを見れば、月の初めか中頃か月末近くかがわかる」から。

 

江戸時代、最初は中国の暦「宣明暦」を使用していました。日本では平安時代の暦を800年以上使用した結果、日食・月食などの予想が2日ずれてしまっていて、正確さにかけてしまっていました。

やっと貞享元年(1685年に)貞享暦という日本独自の暦が誕生しました。この貞享暦を完成させたのが、渋川春海(安井算哲)。映画にもなった「天地明察」の主人公ですね。(映画では岡田准一さん、妻の役を宮崎あおいさんが演じていました)
映画の中でも、海沿いを測量する渋川春海の一行の苦難も描かれていたのが印象的です。

そのような苦難の上に作られた貞享暦ですが、江戸時代には何度か改暦が行われています。

当初の「宣命暦」⇒貞享暦(1685年)⇒宝暦暦(ほうりゃくれき 1755年)⇒寛政暦(1798年)⇒天保暦(1844年)

 

宝暦暦を改暦し、寛政暦を作る国家プロジェクトのため、高橋至時が大阪から東京に幕府天文方として登用されたのが寛政7年(1795年)。忠敬が江戸の深川に居を構えたのと同じ年でした。歯車が回り始めます。

 

この項まだまだ続きます。もうしばらくお付き合いください。