おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

伊能忠敬と高橋至時 江戸にて2

前項で名前の出てきた渋川春海は最初の天文方となり、天文観測のための司天台を牛込藁店に設置しましたが、何度か移転を繰り返し、天明7年(1782)に浅草の地(現在の地名では蔵前駅付近)に浅草天文台として設置されました。

一方、忠敬は、深川の自宅に自前で天文台を作り、毎日(雨の日は無理でしたでしょうが)昼の太陽の観測(真南すなわち南中の時間、高度)と夜中の天体観測を欠かしませんでした。また、自宅から天文台までの道のりを何度も歩測していました。

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浅草天文台跡 蔵前一丁目交差点西南角にあります

 

高橋至時は移転後十数年でここ浅草で天文方として観測を始めます。案内板には(写真では見づらいですが)、以下の記述があります。

『忠敬は全国の測量を開始する以前に深川の自宅からこの天文台までの方位と距離を測り、緯度一分の長さを求めようとした。』

正しい暦を作るには、地球の大きさを正確に知ることが必要です。

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天文台の案内板 反射して見にくい!ですが高橋至時伊能忠敬の名前が見られます

一分は一度の六十分の一なので、円は21,600分、自宅と天文台の距離を21,600倍すれば地球の大きさが求められる、そう考え、至時に自身の計算した数字を述べました。

しかし、帰ってきた答えは、「両地点の緯度の差は小さすぎるから正確な値は出せない」「「正確な値を出すためには、江戸から蝦夷地くらいまで距離を測る必要があるだろう」

ちょうどその頃、ロシアはエカチェリーナ二世の治世期間。毛皮の交易のために極東へ勢力を拡大させてい時期です。ラックスマン根室に入港したのは寛政9年(1792)。大黒屋光太夫(日本の漂流民 井上靖の「おろしや国酔夢譚」でも知られています)引き渡しとともに、日本に通商を求めました。

幕府でも蝦夷地の調査・測量が必要だという機運が高まっていました。至時はこうした動きを踏まえ、蝦夷地の正確な地図を作る計画を立て、幕府に願い出ました。ここに財力・指導力・測量技術などから、忠敬を推挙します。

幕府でもふさわしい人材だと考えます。高齢だという懸念はありましたが。

子弟の話、まだ続きます。