おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

伊能忠敬と高橋至時 江戸にて3

ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。

測量出発前の話の続きです。

武士ではない忠敬に幕府が測量許可を出すまでの間、地元佐原の村人たちから苗字帯刀を許していただきたいとの訴えかけなどもありました。こうした動きも師の至時が知恵を働かせたものと考えられます。

寛政12年(1800)初め、やっと蝦夷地の測量が認められましたが、当初荷物は船で蝦夷地へ運ぶことになっていました。幕府の目的は蝦夷地だけ→陸路を取る分、時間と費用がかかる→途中は船で行け、ということですね。

至時は大阪から召し出された人ですから、関西弁でこう思ったでしょう。
いや、それじゃあかんねん と。
伊能忠敬は下総の言葉で同じようにツッコンだろうと思います。

船で行ったのでは、江戸から蝦夷地までの距離を測って、地球の大きさを知ることができなくなってしまいます。

二人は色々と理由をつけて希望した結果、陸路をとることは認められたものの、荷物は減らされ、それに伴い測量器具も当初の計画より減らされてしまいました。

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測量器具の一つ 象眼儀  分解しても運ぶの大変そう
 
同年の閏4月(閏月については、太陽太陰暦のくだりで説明をしました)に、測量の命令がくだされたものの、名目は「測量試み」。幕府は元農民の忠敬には、それほどの期待を抱いていなかったのかもしれません。
 
閏4月19日ついに忠敬は自宅から蝦夷地へ向けて出発、無事を祈るためか、自宅すぐ近くの富岡八幡宮に参拝しています。
その後浅草の至時を訪ねた後、奥州街道を北に向かいました。時に忠敬55歳、内弟子三人、下男二人をつれての出発でした。

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富岡八幡宮 測量のスタートです
 またしばらくお付き合いください。本日はこれまで