ようこそのお運び厚く御礼申し上げます。
測量出発前の話の続きです。
武士ではない忠敬に幕府が測量許可を出すまでの間、地元佐原の村人た ちから苗字帯刀を許していただきたいとの訴えかけなどもありまし た。こうした動きも師の至時が知恵を働かせたものと考えられます。
寛政12年(1800)初め、やっと蝦夷地の測量が認められまし たが、当初荷物は船で蝦夷地へ運ぶことになっていました。幕府の 目的は蝦夷地だけ→陸路を取る分、時間と費用がかかる→途中は船 で行け、ということですね。
至時は大阪から召し出された人ですから、関西弁でこう思ったで しょう。
いや、それじゃあかんねん と。
伊能忠敬は下総の言葉で同じようにツッコンだろうと思います。
船で行ったのでは、江戸から蝦夷地までの距離を測って、地球の大 きさを知ることができなくなってしまいます。
二人は色々と理由をつけて希望した結果、陸路をとることは認めら れたものの、荷物は減らされ、それに伴い測量器具も当初の計画よ り減らされてしまいました。
寛政12年(1800)初め、やっと蝦夷地の測量が認められまし
至時は大阪から召し出された人ですから、関西弁でこう思ったで
いや、それじゃあかんねん と。
伊能忠敬は下総の言葉で同じようにツッコンだろうと思います。
船で行ったのでは、江戸から蝦夷地までの距離を測って、地球の大
二人は色々と理由をつけて希望した結果、陸路をとることは認めら
測量器具の一つ 象眼儀 分解しても運ぶの大変そう
閏4月19日ついに忠敬は自宅から蝦夷地へ向けて出発、無事を祈 るためか、自宅すぐ近くの富岡八幡宮に参拝しています。
その後浅草の至時を訪ねた後、奥州街道を北に向かいました。時に 忠敬55歳、内弟子三人、下男二人をつれての出発でした。
その後浅草の至時を訪ねた後、奥州街道を北に向かいました。時に
またしばらくお付き合いください。本日はこれまで