おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

伊能忠敬と高橋至時 江戸にて4

奥州街道に向う忠敬たち測量隊の一行は、千住で知合いの見送りを受けました。ここで人足三人、馬二頭を加えます。

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千住神社 忠敬も参拝したでしょうか


北へ北へと歩いて自らの歩幅で距離を測ります。そのスピードは一日40キロ、ただ歩くのでなく、測量しては都度記録するので、相当な早さです

出発して21日目(5月10日)に本州の最北端に到着、蝦夷地へ渡るのと、箱館にて出発に時間がかかり、蝦夷地の測量を始めたのが同月29日でした。
ここからの足跡はだいぶ省略します。千住に帰り着いたのが180日後の10月21日。11月上旬から地図の作成に入り、12月21日には役所に提出しています。江戸に帰ってちょうど2ヶ月、仕事が早いですね。

幕府は提出された地図の出来映えを見て驚嘆、至時も、同門で同僚の間重富に、「これほどとは思っていなかった」と評価しています。
これを最初に、忠敬は幕府の命を受け全部で10回、15年に渡り日本全国を測量することになります。

地球の360分の1、1度の距離については、第一次測量で27里余、第二次第三次測量の後に約28.2里という計算をしました。至時は自身の推定と少し違う、と疑問を呈したところ、忠敬が「それでは測量の数字が信用できないということで、やっとられんわ」と、(こんなにストレートには言っていないものの)機嫌を悪くし、至時がなだめて測量を続けさせる一幕もあったといいます。忠敬も測量を重ね、自信のある数字だったのでしょう。

師弟を喜ばせたのが第四次測量が終わった後のこと。至時はオランダから取り寄せた「ラランデ暦書」(著者のラランデはフランスの天文学者)を読み解いていましたが、そこに記されていた一度の距離は、忠敬の計算と一致するものでした!
これまでの苦労を想い、二人は喜びと合いますが、翌年の文化元年(1804)正月、師の至時に死が訪れます。師弟をを喜ばせた「ラランデ暦書」が師の命を縮めたのでした。

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上野源空寺にある高橋至時の墓 東岡は至時の号です

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高橋至時のお墓にある案内板です

至時の死後も話は続きます。