おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

地図はどこへ消えた?

高橋景保(かげやす)は、文化元年(1804年)に亡くなった父、至時の後を継いで20歳で天文方となり、伊能忠敬の地図完成まで監督を行ったことを、前項でお伝えしました。天文方以外にも文化8年(1811年)蛮書和解御用の仕事に携わるようになります。

蛮書和解御用?何の仕事でしょうか。蛮書(ばんしょ)つまり洋書を和解(わげ、と読みます)⇒和訳する、御用=役所ということなので、翻訳局、と考えるとわかりやすいでしょう。

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江戸城=皇居

翌々年、失火により観測器具・記録や、父が手に入れたラランデ暦書を初めとする文献を焼失させてしまいました。組織のトップとして辞任を考えたものの、周囲からの慰留でその任にとどまります。それだけの才能があったのだろうと思われます。

それだけでなく、さらに翌年の文化11年(1814年)には、天文方のまま書物奉行をも兼任することとなります。江戸城内の紅葉山文庫(文書館)の管理を行う役目です。今でいうと国会図書館の館長、とはちょっと違いますかね。

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二重橋の右ずっと進んだ先が紅葉山文庫があった場所のようです

天文学にとどまらず、翻訳・文書管理とその才能を多方面で発揮していた景保ですが、忠敬の死から10年、「大日本沿海輿地図」完成から7年後の文政11年(1828年)に日本歴史上の大事件(日本史の教科書に載ります)に巻き込まれます。

この話、次回に続きます。

 

話は変わって、幸手市にある権現堂堤の桜&菜の花を見に行きました。

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権現堂堤 菜の花から桜 

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桜から菜の花

本日もお付き合いくださり、ありがとうございました。