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シーボルト事件のお話です。
シーボルトの名前は日本史で皆さんお聞きになったと思いますが、彼がオランダ人だと思われている方が殆どではないでしょうか。鎖国(教科書からはこの表現は消えているそうですが)時代、日本と国交があったのは、オランダと中国(明⇒清)と李氏朝鮮だけでしたから、そう思うのも無理はありません。
しかし、wikipediaなどで調べると、シーボルトは「ドイツの医者・博物学者」となっていて、当時のバイエルン王国の貴族出身ということです。医師でありながら、東洋の研究(特に植物学)を希望し、オランダ領東インド陸軍の軍医となり、1823年(日本では文政6年、伊能図完成の2年後です)に長崎の出島のオランダ商館医として来日します。
長崎でのシーボルトの活躍と、日本の医学への功績はここで述べるまでもありません。また、長崎の遊郭、丸山町の遊女、瀧(楠木瀧)との間に、一女(楠木イネ)を設けます。、楠木イネは、日本初の女性西洋産科医で、大河ドラマ「花神」では浅丘ルリ子さんが演じていました。
文政9年(1826)、オランダ商館長の江戸参府に同行した際、江戸で交友した仲間の中に最上徳内らとともに、高橋景保がいました。
シーボルトの残した「江戸参府紀行」の高橋景保の稿の注釈には以下のように示されています。「シーボルト携帯の那波翁戦記 、和蘭陀の地図等を得て国の為にせんとし、之を切望せる餘り、シ ーボルトの請によりて日本地図を與えたるが、後に其事発覚して、 所謂シーボルト事件となり。第一に罪を得て牢獄に入りしが、 その禁錮中に死亡したり。」
景保は、伊能図の写しと引き換えに、世界の最新情報を得ようとして罪に問われたのでした。文政11年(1828)、それが露見しました。子供のころ読んだマンガ日本の歴史などでは、出帆したオランダ船が台風で難破、船内からその地図が発見されて発覚した、という流れでしたが、近年では江戸で露見し、長崎でシーボルトを取り調べて、保有していた品々の中から禁制品が数多く見つかった、というのが真相だとされています。
景保は同年10月に小伝馬町の牢獄に投獄され、約四か月後に獄死しました。享年45。
死体は塩漬けにされ、斬首刑を申し渡されました。
シーボルトも景保も、純粋に学術的興味による情報交換だったのかもしれません。しかしながら、当時の日本を取り巻く世界情勢が、それを許さなかったのでした。
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次回から、春の旬、桜のお話でお付き合いいただきたいと思います。