これらのお話は、「東京城址高生」とかぶるところががありますが、悪しからずご覧いただければ幸いです。
「長尾景春の乱」における対立図式は
上杉氏側:山内(埼玉・群馬に本拠)・扇谷(川越・江戸に本拠)の両上杉氏 太田道灌(扇谷上杉氏の家宰)、長尾忠景(山内上杉氏家宰:景春の叔父)
長尾景春側:長尾景春(山内上杉氏家臣 本拠は群馬県渋川市白井)、足利成氏(第五代鎌倉公方・初代古河公方 本拠は茨城県古河市)+南関東の国人領主(豊島氏含む)
豊島氏は前回書いたように、当時石神井をを本拠として、石神井川流域に勢力がありましたが、江戸の太田道灌の勢力拡大を苦々しく思っていたと思われます。
1477年、当主泰経は石神井城、弟泰明は練馬城で(平塚城からここまで出兵していました)両上杉・道灌に対抗します。それにより、扇谷上杉氏の根拠である川越城と、江戸城の間の連絡通路が遮断されてしまうこととなりました。
道灌は石神井・練馬の両城にこもる豊島氏に対抗し、中野区沼袋の沼袋氷川神社に本陣を置き、練馬城の周囲に火を放ち豊島氏を挑発、これに対し両城から出てきた軍勢を、江古田の地で待ち構えます。江古田・沼袋の戦いです。
豊島氏の話、まだ続きます。