おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

上水の樋(ひ)から水が漏る6

玉川上水は、青梅線羽村駅から西に約500Mの多摩川から取水し、四谷四丁目交差点付近にあった四谷水番所までを開渠でつないでおり、その全長は42.74キロメートルあります。

玉川上水の工事が始まったのが、三代将軍家光の時代、承応2年(1653)のことです。すでにこの時代、神田上水だけでは江戸市中の水を賄うことはできなくなっていて、新たな上水の建設が必要となっていました。

老中の松平信綱(その才覚と伊豆守であったことから、「知恵伊豆」と呼ばれました)が総奉行、関東代官頭の伊那忠治が水道奉行となり、多摩川流域の富農、玉川庄右衛門・清右衛門兄弟(一般に玉川兄弟として知られます)に工事の指揮を命じました。

神田上水もそうですが、玉川上水も、土地の高低差のみを利用する「自然流下式」をとっています。しかし関東平野は南北の高低差はあるものの、東西の高低差があまりないため、この工事は困難を極めました、

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玉川上水小金井公園南側)

当初、取水地はより南側の日野近辺だったそうです。しかし、5キロほど東まで開削し、試験的に水を流したところ、無残にも水は地面に吸い込まれてしまいました。

関東ローム層」の水喰土(みずくらうど、おそらく火山灰の地層なのでしょう)により地中への吸収で水流が消失してしまうことからこのルートは断念せざるを得なくなりました。失敗により工事にかかわった役人が処刑される際、「かなしい」とつぶやいたことから、その地に「かなしい坂」の名前が残りました。(現在の京王線多磨霊園」駅の南、東郷寺そば)

次に計画されたのは、より上流の福生の辺りですが、ここも水喰土や硬い岩盤に阻まれ、工事は途中でストップしてしまいます。

兄弟が最後に選んだ取水地が羽村の地だったのです。

玉川上水の話、続きます。(しかし外出自粛のせいでこのあたりの写真がありません(>_<))