羽村の取水口から四谷まで、長さは約43キロメートルありますが、高低差はというと、わずか92メートルしかありません。高低差のみで水を運ぶ「自然流下式」の上水ですから、この高低差の無さを補う技術は相当高いものだといえます。
ちなみに京都にいたときに、京都駅と北大路の高低差は京都タワーの高さと同じ、という話を聞いたことがあるのですが、両者の距離が約7キロメートル、高さが131メートルです。
92メートルを1キロメートルあたりで割ってみると、約2.14メートル。100メートルあたり21.4センチの勾配です。一方京都についていえば、100メートルあたり1.87メートル。玉川上水の勾配がどれだけ小さなものか想像できると思います。(この勾配が430倍続きます)
しかも、関東ローム層は火山灰と砂などが混じり、透水する地層に用水を掘削することができない、という困難も重なっています。
当初幕府からの拠出金(6000両とも7500両ともいわれています)は、高井戸の南辺りまで掘り進めたところで底をついてしまいました。そこで工事を請け負った玉川兄弟は、屋敷などを売って追加資金を捻出(3000両)し、工事を継続、着工から約7ヶ月後の承応2年(1653)11月15日開削が完了、翌年6月から通水が開始され、江戸を潤したのでした。
最初、神田上水だけを取り上げて、手持ちの写真から話をつなげていったのですが、江戸の水道の話にあたって、玉川上水についても書いてみようと調べ始めました。
すると、工事の困難さは神田上水の比ではなく、続けてご紹介してきました。しかし、流域の写真不足も含め、不十分な説明になってしまいました。改めて(緊急事態宣言が解除されてからですが)多摩川周辺を散策して、詳しく紹介しなおしたいと思います。
江戸の町の上水にかかわる話、いったん終了します。お付き合いいただきありがとうございました。