おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

小柄な鼠が金盗って誅6

伴侶を二十三歳の時に失ったお傳は、しばらくして小川市太郎というやくざ者と良い仲になってしまいます。明治初期に盛んだった茶の販売に手を出した二人ですが、次第にうまくいかなくなり、後藤吉蔵という男に二百円の借金を頼みます。

吉蔵はお傳の異母姉(すでに死亡)の亭主で、古物商を営んでいました。当初はそんな大金は・・と拒んでいた吉蔵ですが、旅籠で一夜を共にするよう誘い、お傳もやむなく吉蔵に従います。

ところが、夜が明けると、吉蔵はそんな大金はないといったろぅ、と知らん顔。お傳は怒って剃刀で吉蔵の首を搔き切って殺害し、財布の金を奪って逃走します。明治9年(1876)8月のことでした。

殺人事件とは云っても、昨今のように、言い寄った男が次々に謎の死を遂げる、というわけでもなく、「毒婦」といわれるのには今の感覚からいうと違和感を感じます。

新しい時代を乗り切ろうとした女性であったこと(当時としては、女だてらに、という目で見られたのかも)、自白まで供述を変えたり、死ぬ直前まで市太郎の名前を呼んで暴れまわったことなどに加え、当時の新聞や戯作者が、あることないこと面白く書きたてたのが原因で、本人は一生懸命あがいて生きただけのような気がします。

実は、お傳のお墓はもうひとつ、谷中霊園にもあるのですが、これは3回忌に、彼女を取り上げて人気を博した戯作者、仮名垣魯文の世話で、市川左団次三遊亭円朝などの寄付によって建てられました。お傳の話で潤った人たちの贖罪の証といえなくもありません。(本来ならそちらのお墓の写真を載せるところですが、緊急事態中につき行けませんでした・・・)

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直侍=片岡直次郎の墓

お傳のお墓の左は、片岡直次郎。「直侍」とも呼ばれ、寛政の時代(十一代将軍家斉の時代)に河内山宗春らと恐喝・詐欺を繰り返しました。講談「天保六花仙」の一人として知られます。同じ六花仙の一人で、紅一点の三千歳(みちとせ)が、彼の遺骸を引き取って、ここ回向院に葬ったといわれています。

これを調べていて、三千歳とこれも六花仙の剣客、金子市之丞のお墓が流山にあったのを思い出しました。

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流山閻魔堂にある金子市之丞の墓 隣に三千歳の墓があると書かれています

案内板には隣接して三千歳のお墓があると書かれています。行ったときは「誰?」という感じでしたが、こうして色々なところで歴史や人がつながっているのを感じとるのが、歴史散策の楽しみのひとつですね。

次回、やっと本題の鼠小僧の話に入れそうです・・・