江戸に戻った徳川慶喜は恭順の意思を示して上野寛永寺で謹慎、新選組はその警護を行っていました。近藤に勝海舟が甲州を鎮撫するよう命じます。
3月1日、新選組70余名と春日隊40名に加え、浅草弾左衛門配下から「武士にしてやる」とスカウトした被差別部落の民200名で「甲州鎮撫隊」と称し、甲州に向かって進軍します。その際幕命をを受けて、近藤は大久保剛(のちに大和)土方は内藤隼人と名乗っています。彼らの目指す甲府城は、その時点でまだ幕府管理下にあったため、普通に行軍すればそのまま入城が可能でした。
が、混戦部隊で、決して士気が高いとは言えないため、行軍中、大名行列のように贅沢に豪遊しながらゆっくり行軍したのが裏目に出ました。
板垣退助らの率いる官軍が、鎮撫隊に先んじて甲府城に入城したのでした。3月6日、官軍と鎮撫隊との間で戦闘が始まりましたが、洋式戦術の官軍に対して、不慣れな鎮撫隊は惨敗、八王子まで退却した鎮撫隊は解散、江戸へと敗走してしまいます。
この時、新選組当初からの仲間、永倉新八、原田左之助と意見の違いから決別しています。新選組はあくまで同士的な集団だとする永倉に対し、近藤は臣下となるよう口にしたことが原因だと言われています。
再起を図る大久保(近藤)と内藤(土方)らは、綾瀬(常磐線)周辺で旧幕府の歩兵らを募集、それにより隊士は227名まで増加しました。この勢力をもって、新選組は流山に駐屯するのですが・・この続きは次回に