エピソード4 板橋での最期
板橋宿は、「江戸四宿」のひとつです。「江戸四宿」とは、日本橋を起点とした五つの街道の最初の宿場ということです。ひとうひとつ並べると、東海道は品川、甲州街道は内藤新宿、奥州道と日光道が千住宿、最後の中山道が板橋宿です。いずれも日本橋から二里(約8㎞)以内のところにあり、江戸の境界の役割も果たしました。
政府(官)軍は東海道軍・東山道(中山道)軍・北陸道軍の3軍に別れて江戸に進軍しましたが、そのうちの東山道鎮撫総督府が置かれたのが板橋宿です。
大久保(近藤)が新政府軍に連行され、流山を後にしたのが4月3日の午後10時過ぎ。夜通し移動して翌朝の6時に越谷宿に到着しましたが、一隊長として遇されました。越谷では10時までの間、仮眠と朝食、入浴が許されています。
しかし、連行途中から「あれは近藤勇ではないか」と、大久保大和と名乗る人物に不信を抱いた者もいたものの、確証がありません。4日夜、板橋宿の本営に到着しました。
近藤の顔を知る人物はいないか、宿場周辺の新政府軍の面々を探したところ、顔をよく知る人物がいました。「エピソード0 油小路の戦闘」で紹介した、新選組から離れ、首領の伊東甲子太郎や藤堂平助らの仲間を殺された「御陵衛士」の生き残りのうち2名です。正体を認めた近藤はその場で捕縛されました。
土方に近藤の救出を求められた勝海舟ですが、江戸無血開城を控えた時期に表立って動くこともできませんでした。(4月11日に開城されます)
近藤の処分については、坂本龍馬の暗殺は新選組によるもの(当時はそう思われていました)として近藤をすぐに処刑すべき、という土佐藩と、公法をもって裁いたうえで処断すべき、という薩摩藩の意見が対立していました。結局土佐藩の意見が通り、4月25日正午ごろ、板橋宿の刑場で公開斬首の極刑が行われました。
現在、板橋駅東口すぐ近くに「新選組隊長 近藤勇墓所」の看板が見え、近藤と土方両名の名前が彫られた墓(供養塔というのが正しいのかも)と近藤勇の像、新選組の顕彰碑が立っています。二人の墓は明治九年(1876)に建てられました。
近藤、土方亡き後彼らの墓を建てるのに奔走したのは、甲州で敗れた後、決別した永倉新八でした。近藤をはじめ、新選組の名誉回復と二人の墓だけでなく、戦死・横死した隊士の供養塔を建てるため尽力したのです。(供養塔は二人の墓のすぐ横に立っています)
永倉新八は、「自分が死んだら、近藤、土方二人の墓のそばに墓を建て、分骨してほしい」と晩年語っていました。
そこには「新選組 永倉新八墓」と彫られています。永倉は決別の後も、二人をはじめ新選組を同士として思い続けたのでしょう。
山も人も流れていきながら、人のつながりは流れの底で繋がっていたのでしょうか。
流山の項、以上です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。