洪庵自身が遺した「除痘館記録」から要約すると、
・嘉永2年(1849)オランダの医師モンニッケ(モーニッケ)が長崎の小児に日本で最初の牛痘療法を始め、越前候(福井藩)松平慶永(春嶽)の命を受けた笠原良策(福井藩の町医)がその苗を入手、そののち、笠原良策から京都の医師、日野鼎哉(ひの ていさい)に送られ、まず京都に除痘館を開いた。
・大阪の医師、日野葛民(鼎哉の弟)と洪庵は申し合わせ、大和屋喜兵衛(大阪の薬種問屋)をスポンサーに頼み、家を借りて種痘所とすることにした。
・10月30日に小児一名を伴って京都に行き、種痘苗を分与してもらうよう請うたところ、11月7日に改めて、笠原良策が種痘後の一児を伴って来阪し、種痘苗を分与してくれた。これが大阪における牛痘による種痘の最初となった。
ここで「種苗後の小児を一名伴って来阪」という点について補足説明をしておきますと、種痘苗とは、種痘に成功した後のかさぶたか、種痘した7日目の子供から子供へ植え継ぐ方法しかありませんでした。洪庵が10月末に京都に行き、笠原良策の来阪が11月7日になっているのは、そのあたりのスケジュールによるものかと思われます。
・日野葛民、緒方洪庵とスポンサーである大和屋喜兵衛は最初に「この事業は仁術を旨とし、世の中のために、この新しい方法を広める」との誓いを建てた。
・しかし世の中に悪いうわさが広まり、牛痘は(天然痘予防の)役に立たないばかりでなく、かえって子供に害を及ぼす術だとして、効能を信じる人が一人もいないありさまだった。
・そのため、貧しい子供に呼び掛けて、米・銭を与えて諭して種痘を受けさせるようにした。ようやく数年してようやく周囲の人々に効能を理解してもらえるようになった。
・安政5年(1858)、大坂町奉行を通じて幕府公認が行われ、大阪の種痘所はこの場所一か所のみ許されることになった。
これについても補足しますと、種痘の効果が理解されていくとともに、もぐりの種痘療法を行う医者が増えてきたことから、免許制に移行したことを指しています。
これらの文章の後、「除痘館記録」は大阪の医師や商人、町役人などへの謝意を述べ、次の文章で締めくくられています。
「社中各家の苦心労思せしことを想像し、寡欲を旨として、仁術の本意を失わず、其良意を嗣ぎ玉へと云爾」(云爾=うんじ、これにほかならないの意)
種痘普及=疱瘡で苦しむ人をなくそうと、身銭をきってまで尽くした、洪庵をはじめとした医師、商人たちの気持ちに尊いものを感じます。
大坂でこうして普及した種痘法ですが、江戸の地での普及については次回から。