おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

伝家の疱瘡~「陽だまりの樹」の舞台をたどる5

大坂で「除痘館」が開かれたのが嘉永2年(1849)、その後佐賀藩福井藩など、開明的な藩主を持つ藩から、種痘苗は関東・東北へも広がっていきました。しかしながら、幕府のお膝元である江戸では、種痘所設立の要望は蘭方医の間で高まっていたものの、なかなか実現しませんでした。

陽だまりの樹」においては、手塚良庵(手塚治虫先生の高祖父←曽祖父の父)たち江戸の医師たちが、幕府の要職にある人物に働きかけようとして、対立する漢方医の多紀元堅たちの妨害にあう話がつづられます。

実際、当時将軍家の侍医である「奥医師」はほぼ漢方医で独占されていて、政治力では全く歯が立たない状態でした。「除痘館」が開かれたのと同じ年に、多紀元堅たちは老中阿部正弘に働きかけ、蘭方禁止令を出させることに成功します。時の権力者との関係があまりない蘭方医たちにとってもどかしい時期がこの10年弱でした。

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岩本町にあるお玉が池種痘所跡

しかし、種痘の効果が明らかになってきたことや、開国にともなう開化のムードもあって、幕府は安政5年(1858)に蘭学が解禁されました。十三代将軍家定の病状の悪化(脚気による心不全)から、伊東玄朴らの蘭方医奥医師に登用されると、更にはその増員にも成功、将軍家が蘭方医にお墨付きを与えた形になりました。やっと江戸においても種痘所を開設する機運が高まってきたのです。