行事部屋へと向かう伊三郎の背中を見送る住職、昔ながらの国技のしきたりをかいくぐって、白木の軍配は使われるのだろうか、と半信半疑の想いで桟敷席に座り、どうなるものかと、固唾を呑んで土俵を見つめます。
大相撲の取組は進み、中入り後、三役の登場となり、式守伊三郎が土俵に上ります。東には貴ノ花、西に豊山。高らかに呼び声を上げる右こぶしに握られたのは、格式ある金箔のきらびやかな軍配ではなく、親方宗四郎の悲運が込められた白木の軍配でした。
住職は思わずむせび泣き、宗翁よ御覧なさい、あの軍配が大関相撲を裁き、貴方の無念は今晴れましたぞ、と亡き宗四郎を思い描きます。
ここからは原文のままご紹介していきましょう。
過ぎにし昔蒔かれたる 人の情けのその種が
長の年月朽ちもせで 今花開く土俵上
国技と呼ばれる伝統の 掟きびしき相撲道
亡き恩人に手向けんと 敢てかざせし白木板
万余の人の歓声の 勝負の陰に咲き出でし
情けの花を誰か知る ああ軍配に涙あり
副立行事伊三郎 昔の恩義忘れずに
見事に返す晴姿 男情けの心意気
かざすに軽きひとさしの 軍配なれど秘められし
報恩行のまごころは げに千金の重みあり
知恩報恩人の道 後の世にまで伝えんと
偈文に綴り石に彫る 報恩軍配物語
人の心をうるほして ゆたかに実れ命草
人の心を潤ほして 豊かに実れ命草
この取組が行われたのが昭和48年(1973)、式守伊三郎は昭和62年(1987)まで三役格行事を務め、現役のままその年の10月に62歳でこの世を去りました。この話は伊三郎の死後新聞に掲載され世に知られるようになり、それをきっかけに平成元年にこの石碑が建てられました。
七五七五のリズムで語られたこの物語は、実話だけに読む人の心を打つものがありますし、死後までこの話を表に出さなかった伊三郎に、昭和の男の心意気を感じます。
軍配報恩物語は以上ですが、善養寺についてはもう少しみどころをご紹介させていただきます。