角行は修験道の行者として、常陸国や陸奥国で修行をしたのち、富士山麓にある人穴で一千日間の苦行を実践しました。その際、人穴の中で四寸五分角の角材の上に爪立ちする苦行を行ったことから、「角行」の名前を与えられました。
悟りを開いた角行は、修験とは異なる仙元大日神を信仰する教えを説き、江戸に発生した疫病に呪符を配って救済したことから信仰を集めました。
角行の教えは弟子に教え継がれていきましたが、信仰を共にする小規模の師弟集団であり、富士講という組織は成立していません。18世紀初めの享保年間、村上光清と食行身禄(じきぎょうみろく)という二人の活動により、富士講の組織は発展、最盛期を迎えることになります。
このあたりの系譜を書くと時間が足りませんので、ここでは身禄行者について触れます。本名を伊藤伊兵衛といいます。偶然なのか、駒込の園芸家「樹仙」伊藤伊兵衛政武と同名で、しかもほぼ同時代人です。彼は伊勢国から江戸に出て、富士行者に弟子入りし、油売りを営みながら修行を続けました。貧しい庶民に教えを広げ、世には「乞食身禄」と呼ばれました。
もう一人の富士講の指導者、村上光清が荒廃していた北口本宮富士浅間神社を私財を投じて復興させ、「大名光清」と呼ばれたのとは好対照です。
享保18年(1733)、63歳になった彼は、駒込の自宅を出て、富士山の烏帽子岩で断食行を行い、35日後にそのまま入定しました。
村上派の教義は枝講を認めませんでしたが、身禄派は認めていました。そのため、身禄の死後、娘たちや弟子たちによって富士講が広まり、江戸に八百八講ができたとまでいわれます。
拡がる富士講は、浅間神社を祀り、境内に「富士塚」というミニチュアの富士山を築いて礼拝し、登れば富士山に登ったことと同じ霊験が得られるとされています。
次回から、関東に点在する富士塚についていくつかご紹介していきます。