おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蘭学こと(ば)始め

ここで、源内のことはちょっと置いて、蘭学の始まりについて考えてみます。

ご存知の通り、江戸時代の日本は中国(明~清)・朝鮮(李氏)・オランダ以外の国とは交流がありませんでした。最初は貿易による交流のみでした。が、八代将軍吉宗の時代、将軍自身が海外の物産に関心を持ち、享保五年(1720)禁書令を緩和してキリスト教に関係のない書物の輸入を認めました。また、元文五年(1740)頃より、儒学者青木昆陽本草学者の野呂元丈にオランダ語を学ばせます。

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オランダの書物はカピタン(商館長)から将軍に献上されたものでした

更に、江戸時代初期に将軍に献上されていながら文庫内に死蔵されていた、ドドネウス著『草木誌』、ヨンストン著『動物図説』などの書物を翻訳するよう命じます。出来上がったものは、翻訳とはいっても、元丈らが通詞を通じてオランダ人に質問し、その回答をまとめたようなものでしたが、当時としては十分に役立つものでした。

青木昆陽も長崎へ赴いたり、江戸でオランダ人や通詞と交流し、『和蘭語訳』、『和蘭文訳』、『和蘭文字略考』などのオランダ語学習書を著しました。とはいえ、そこに記された単語数は約700語。とても洋書を読めるレベルのものではありません。

寛保2年(1743)、知人からオランダの書物の切れ端を見せられ、国が異なり言葉が違っても同じ人間だから理解出来ないことはないだろう、と蘭学を志す人物が現われます。

晩年の青木昆陽に学んだこの人物が中津藩の藩医前野良沢です。

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前野良沢の墓のある 慶安寺(大正時代に台東区池之端から杉並区梅里に移転)

明和六年(1769)、中津藩主奥平昌鹿の参勤交代のため、中津に戻る際、長崎に留学します。良沢は長崎で解剖書「ターヘル・アナトミア」を入手します。

解体新書と蘭学にまつわる話が続きます。