おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蘭学こと(ば)始め5

解体新書の翻訳が始められたのが明和八年(1771)、ダイジェスト版である「解体約図」の出版が安永2年(1773)です。この前後、平賀源内はどこで何をしていたかというと、まさに日本各地を点々としていました。年ごとの多種多様な活躍と行動をたどっていきましょう。

明和七年(1770):1月に源内が書いた浄瑠璃「神霊矢口渡」(筆名:福内鬼外)が江戸外記座にて初演される。10月に阿蘭陀翻訳御用として二度目の長崎行。

明和八年(1771):長崎で西洋画を学び、このころ「西洋婦人図」を描いたと思われる。長崎から小豆島、大阪に滞在。

「西洋婦人図」は、源内が描いたことが確実な唯一の西洋画で、日本最古の西洋画とされています。おそらくはオランダ人が持っていた西洋画を模写したものと思われます。

明和九年=安永元年(1772):全国各地の銅銀山を調査するかたわら、故郷の志度で養育した羊で「国倫織」(くにともおり)という毛織物(羅紗)の試作を行ないました。

ちなみに「国倫」とは源内の本名です。

安永二年(1773):春には川越藩の中津川鉄山事業に着手した後、6月には秋田藩に招かれ、藩の銅山事業の指導に赴き、そこで秋田藩主佐竹義敦(曙山)と藩士小田野直武と知り合います。源内はこの二人に西洋画の技法を教え、これにより、後に江戸絵画の奇跡と呼ばれた「秋田蘭画」が成立するのでした。

やっと「小田野直武」が出てきました。

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解体新書扉絵のレリーフ(小塚原回向院)

「解体約図」の図が、原書に比べて写実性に欠けていたことから、扉絵を含めた絵の書き手を探していた杉田玄白たちに、源内は絵の弟子である小田野直武を紹介しました。これにより、解体新書の有名な扉絵が描かれることになりました。

解体新書と源内のその後が続きます。