おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蘭学こと(ば)始め6

源内が秋田藩角館を訪れた際、宿にあった屏風絵を見て感心し、その作者が直武だったと言われています。このとき源内は45歳、一方の直武はまだ25歳でした。秋田で源内から洋画を学びますが、源内が江戸に帰るのととほぼ同時に、直武は藩主佐竹義敦(曙山)から「銅山方産物吟味役」という職務に任命され、江戸に向かうことになります。

直武が江戸に到着したのが安永二年(1773)の12月、解体新書の刊行は翌年の8月ですから、準備期間も含めると、江戸につくとほぼ同時に、玄白ら解体新書チームに引き合わせたと思われます。直武は約半年の短い期間に、日本学術史に残る仕事をやり遂げました。

源内自身は解体新書の刊行に直接かかわっていません。鉱山開発や他の発明などにかかわったいたことで、そのような暇がなかったことに加え、彼自身はオランダ語を解せず、もっぱら通詞を介して知識習得に努めていたことから、翻訳業はジャンル外であったからだと思われます。

平賀源内の業績といえば、エレキテルの発明が最初に挙げられるようですが、実際には長崎で故障したエレキテルを入手し、それを江戸深川の地で復元に成功したのが安永五年(1776)のこと。

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エレキテル 実物が見られるかと思いましたが・・

生涯十数台のエレキテルを制作したとされていますが、そのうちの一台が現存、重要文化財に指定され、墨田区の郵政博物館に収蔵されています。

先月、期待しながら郵政博物館の展示を見てきましたが、普段は展示されておらず、ちなんだテーマの企画展の際に特別展示されているとのことでした。

その他、「土用のうなぎ」の宣伝文句を世に広めたり、歯磨き粉の世界最初のCMソングを流行らせるなど、さまざまな部門で才能を発揮する源内ですが、その最期は悲劇的なものでした。

源内の話、続きます。