この事件の詳細については、世の中を賑わせた割に、同時代に詳細を記したものがなく、不明な点が多いとさますが、ここでは、最もよく知られている話を紹介します。
彼の出身地、高松藩の家老であった木村黙老が遺した『聞まゝの記』で紹介しているものです。黙老は安永三年(1774)の生まれ。源内の亡くなった年が安永八年(1779)ですから、直接の知り合いではあり得ませんが、世の中に広く知られるキセルを手にした平賀源内の肖像画は、彼が描いたものです。
それによると、さる大名の別荘の修理を行うにあたり、普請を請け負った町人がいました。その町人の見積もり費用に対して、源内ははるかに安い値段で可能であると豪語します。その普請の仕事は源内に任せることになりかけました。件の町人との間でごたごたのあった結果、協同で工事を行うことになりました。
何しろ、ひと悶着あった結果のことでしたので、和解のために源内邸でその町人と仲介役の役人が(手打のための)宴会が開かれます。
その際、源内は安く工事を受け合える工夫を、自分の書付を見せながら示し、見せられた二人も感心し、大いに盛り上がって皆酔いつぶれてしまいます。
翌朝、目覚めた源内は、昨晩自慢げに話していた際の書付がないことに気づきます。慌てて町人を叩き起こし問い詰めますが、身の覚えがないと反論します。口論の末、頭に血の上った源内が刀で斬りかかり、町人は深手を負いますが、なんとか屋敷から逃げ出しました。間をおいて少し冷静になった源内、あの深手では助かるまい、であれば自分は殺人罪は逃れられないと、自害しようと身の周りをを整理しようとしました。すると、町人に盗まれたと思った書付が手文庫の中に見つかります。
自分の早とちりで人を殺めたと気づいた源内は、自害(切腹)をしようとしますが、駆け付けた門弟たちに止められ、結果奉行所に出頭したのでした。
源内とこの時代の蘭学者の話、続きます。