解体新書の図を担当した小田野直武について、以前に触れました。源内の刃傷事件が起き、投獄された直後、直武は拝命していた「銅山方産物吟味役」の役を解任されただけでなく、「遠慮謹慎」の刑罰を言い渡され、角館に帰ることとなります。この刃傷事件に秋田藩が関わり合いになることを恐れた措置と推測されています。
そして翌年、5月に直武は原因不明の死を遂げました。享年三十一。
病死や暗殺、あるいは政治的陰謀による切腹など諸説があります。彼の死によって、「秋田蘭画」は大黒柱を失い、歴史の波間に埋もれてしまいました。
しかし、日本における西洋画の流れはこれで途切れたわけではありません。引き継いだのが、源内とも親交があり、直武から画法を学んだ司馬江漢です。
日本で初めてエッチング銅版画を制作した江漢ですが、青年時代は浮世絵師でした。
最初は狩野派の絵を学びましたが、次第に飽き足らなくなり、錦絵の草創期の大家鈴木春信の下で学び、錦絵の版下を書き、鈴木春重を名乗っています。春信の死後は、版元に依頼されて春信の落款で作品を世に出したこともあったようです。
源内は春信だけでなく、宋紫石とも親交がありました。宋紫石は中国(清)の南蘋派の絵師で、西洋画の手法も通じており、源内の著した博物学の著作の図絵を描いたのが紫石です。江漢はその絵を見て従来の日本の画にない写実性に魅力を感じたようで、今度は紫石の門に入り、漢画家となります。
写実性を追求する彼は、源内から西洋の自然科学の知識を得、更に小田野直武に西洋画を学び、前野良沢にも師事します。江漢は絵師であっただけでなく、蘭学者でもありました。この話、続きます。