おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蘭世の漢友5

江漢が最初に銅版画を発表したのが、天明三年(1783)。「天明」というと、日本史で思い浮かぶのが「天明の大飢饉」です。天明三年から八年にかけて東北地方を中心に発生し、農村に壊滅的な打撃を与えました。天明三年の火山噴火(岩木山浅間山)によって舞い上がった火山灰による「日傘効果」で日射量が低下したことなどが主因と考えられています。

8月に「ええ樹を養う~横綱の松」で紹介した小岩の善養寺には、天明三年浅間山噴火横死者供養碑が建てられています。

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善養寺の不動門の前に建てられた供養碑

浅間山があるのは長野県ですが、噴火の際に犠牲になった人馬の遺体がたくさん江戸川を流れ下り漂着したのを、遠く小岩の地の人々が、十三回忌にあたる寛政七年(1795)に建てたものです。

さて、この天明の飢饉の間の天明六年(1786)に十代将軍徳川家治が亡くなっています。この死により、平賀源内との親密であった老中田沼意次が失脚しました。

田や沼やよごれた御世を改めて 清くぞすめる白河の水

この後、白河藩の藩主であった松平定信が老中となり、「寛政の改革」を進めていくことになります。蘭学者たちが、新たな権力者である定信の政策に逆らうことなく、体制に折り合いをつけていくのに対し、江漢は定信を含めた幕閣の鎖国政策(当時はロシアが蝦夷地に使節を送り、貿易を求めていました)を批判し、反体制的な行動をとっていたことで孤立していきます。

この時期、蘭学者を役者と役名でランク付けして紹介する番付で、江漢は「唐絵屋の丁稚猿松 司馬漢右衛門」と猿真似で洋風画を描く者、とされました。また別の番付では、「銅屋の手代高慢うそ八 司馬漢右衛門」と紹介されています。銅版画を作成したのを自慢する江漢を高慢ちきな嘘つきとしてこき下ろしています。蘭学者たちの江漢への視線のほどが伺われます。

次回、江漢の晩年について触れます。