おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

蘭世の漢友6

江漢が画業からの引退宣言と書画の会を開催したのが文化四年(1807)のこと。齢六十を越え気力が劣えたので、閑居するにあたり記念の書画会を開催するという通知を知人達に配布しました。がその会の後も変わらず画を描き続けています。

更に翌年、数えで六十二歳となったにもかかわらず、自作の暦の中に「七十一翁 江漢考」と記し、自分の歳に九歳を加算して、老いたように見せかけるようになりました。

奇行はそれだけにとどまらず、更に五年後の文化十年(1813)に、「七十六翁司馬無言辞世の語」の引札(チラシ)を江戸・京都・大阪で配ります。

「無言」は江漢の号ですので、「七十六歳の司馬江漢の辞世の言葉」という意味。まだ本人は生きているにもかかわらず、死亡広告を出した、というわけです。

人を驚かせて楽しんだのでしょうか、このあたり平賀源内にの共通するものを感じますが、源内もあと十年生きていたらこんな感じになっていたのでしょうか。

江漢はこのチラシを配った後も、五年間この世にあったため、次のような逸話が残されています。

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司馬江漢の墓のある慈眼寺

自分のことを死んだと知らしめているので、芝に隠れ住んでいましたが、ある時道を歩いていると、知り合いがその姿を目に留め、追いかけて江漢の名前を呼びました。

江漢が走って逃げたので、それを追いかけてすぐ傍まで迫ります。するとこちらに頭を向け、目を見張ってひと言「死んだ人間がどうして返事をするものか」と言い、そのまま走り去った、というものです。

江漢の作った狂歌に何度か使われるフレーズに「上天子より下乞食まで」というものがあります。貴賤を問わず人は誰でも、という意図を含んでいるようで、江漢の人生と重ね合わせると似つかわしいフレーズのような気がします。

司馬江漢の話はここまで。明日から杉田玄白の話で、蘭学者シリーズを締めたいと思います。