おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

一心不蘭、百花繚蘭

田沼意次松平定信化政文化という流れとともに、蘭学は拡がっていったわけですが、その立役者が「解体新書」であることは誰しもが認めるところかと思います。

蘭学こと(ば)始め」の中でその翻訳作業にういて触れましたが、腑分けを見た帰りに翻訳を思いつき、その作業を成し遂げた三人のその後をたどってみましょう。

 

中川順庵:小浜藩蘭方医で、本草学を田村藍水から学ぶ。平賀源内とは兄弟弟子ということですね。解体新書の出版後は、長崎出島の商館付医師ツンベリーや商館長チチングとも交流しています。ツンベリーは著書『日本旅行記』の中で彼の名前を出しており、この時代でヨーロッパでも名前を知られた数少ない人物の一人です。

井上靖先生の「おろしや国酔夢譚」で知られる大黒屋光太夫が、帰国後江戸で尋問を受けたとき、ロシアで聞いた日本の学者の名前として順庵と桂川甫周を挙げています。

これが寛政五年(1793)のことですが、彼はヨーロッパで自身の名前を知られている名誉を知ることはなく、天明六年(1786)に亡くなっています。膈症、というのですが、胃がんないしは食道がんと考えられています。

中川順庵のお墓は検索したものの、見つかりませんでした。福井県小浜に顕彰碑が建てられているそうです。

 

前野良沢:「解体新書」に翻訳者として名前は載せていないものの、翻訳の中心はこの良沢でした。いわゆる職人肌というか、学者肌というか、人付き合いのあまり得意でなく、世渡り下手なタイプだったのかも知れません。

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前野良沢の墓のある慶安寺境内(現在は杉並区に移転)

福岡藩江戸詰藩士の家に生まれましたが、のちに中津藩の医師前野家の養子となり、中津藩医を勤めました。「解体新書」発行当時は名前が出ていなかったため、その業績は世に知られていませんでした。名前を出さなかったのは、翻訳の内容にまだまだ不足・不備を感じており、自分の名前が不完全な書物に出ることを嫌がったためと言われています。

その完璧主義のゆえ、オランダ語研究の熱意は生涯衰えることはなく、中津藩主奥平正鹿から、「蘭学の化け物」と賞賛されたことを名誉とし「蘭化」と号しました。

享和三年(1803)八十一歳で死去し、台東区下谷池之端曹洞宗慶安寺に埋葬されましたが、現在は杉並区梅里に移転しています。

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慶安寺の案内板

良沢が「解体新書」の翻訳に大きくかかわったことを知らしめたのが、杉田玄白の「蘭学事始」でした。次回はやっと杉田玄白を取り上げます。