おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

一心不蘭、百花繚蘭3

蘭学事始」は文化十二年(1815)の玄白八十三歳の時に、蘭学が芽生えた時期からの回想を綴って弟子の大槻玄沢に渡した手記です。その前年にはすでに書き終わっていたようですが、玄沢に校訂してもらい完成させました。原本と写本の二冊と、それを更に筆写した写本くらいしかなく、決して出版物として多くの人の目につくように著されたものではありません。

老いた玄白が自分の死後、蘭学の草創期の出来事が誤って伝えられることのないように書き残しました。この時の題名は「蘭東事始」(らんとうことはじめ)。

玄白は二年後の文化十四年(1817)に八十五歳でこの世を去ります。

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杉田玄白の墓のある 東京愛宕の栄閑院

二冊のうち、現行本は杉田家、写本は大槻家に所蔵されていましたが、杉田家の本は幕末安政の大地震で焼失、大槻家に遺された写本も散逸してしまいます。

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栄閑院境内の杉田玄白

全くの偶然なのか、歴史の因果によるものなのか、幕末に「蘭東事始」が世に出る事件が起こります。

神田孝平(かんだたかひら 通称 こうへい)という蘭学・洋学者が湯島の露店で、「和蘭事始」という書物に出会います。この「和蘭事始」がわずかに流布された「蘭東事始」の写本だったのです。

孝平は、玄白の孫である杉田成卿(すぎたせいけい)や江戸の種痘所設立時尽力した伊藤玄朴(いとうげんぼく 「陽だまりの樹の舞台をたどる」で紹介しました)から蘭学を学んだ人物であり、蘭学者仲間の間でこの本の発見は当時の話題となったことでしょう。特にその内容に大きな感銘を受けたのが福沢諭吉でした。

次回、諭吉の感銘と「蘭学事始」の出版にまつわるお話です。