おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

落語あれば座り3

江戸では大坂と同じ時代に鹿野武佐衛門が出て、諸家に招かれて噺をする他、現在の八重洲近辺で小屋を設けて興行を行ったとして伝えられています。それにより武佐衛門は「江戸落語の祖」とも言われているのですが、彼の後、いったんは江戸での落語は勢いを失います。

というのが、元禄六年(1693)に、次のようなうわさが広まります。

「今年の夏に流行する疫病を防ぐためには、梅干しと南天の実を煎じて服用すれば良い。これはさる所の馬がお告げを下したものである」

これにより、江戸市中の梅干しと南天の実が高騰する大騒ぎとなります。ちょうどその直前、武佐衛門の作った小噺に、馬の後ろ脚という端役を演じる役者が見物人に演技を誉められ、後ろ脚にもかかわらず馬の真似をして泣き出す、という内容のものがありました。

先のうわさを広め、奉行所の詮議を受けた張本人は、一儲けしようとたくらんだと白状しましたが、「馬がお告げを下した」というくだりはこの武佐衛門の小噺から思いついた、と言ったもので、何の関係もない武佐衛門のまでが連座刑となり、本人は伊豆大島への流罪、小噺集を発行した版元は江戸を追放、発行の版木は焼却される羽目となります。武佐衛門にすれば、あずかり知らないところで勝手に小噺の題材を使われたかっこうで、とんだとばっちりを食らったわけです。

このことで、「江戸落語の祖」は江戸から消え、いったん江戸での落語の流行の火は消えてしまいます。

その後、約百年間の時を経て、天明の時代、西暦でいうと1780年頃、本所立川に住む大工の棟梁、烏亭焉馬(うてい えんば)が今につながる江戸の落語流行を生み出します。

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本所塩原橋南側 烏亭焉馬居住の地案内板(字が読めない・・)

烏亭焉馬江戸落語のその後については次回以降に