おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

落語あれば座り4

烏亭焉馬(うてい・えんば)は代々続く大工の棟梁の家に生まれ、本業の傍ら狂歌師、戯作者・浄瑠璃作家としても活躍しました。狂歌師としてのペンネーム?は「鑿釿言墨曲尺(のみのちょうなごんすみかね)」。これは本業が大工であることから、大工道具のノミと手斧(ちょうな)、墨壺と金尺(L字型の定規)と中納言をもじったもの。

また、本所立川(堅川)に住んだことから、立川焉馬とも名乗りました。現在の立川流落語とは直接関係はないものの、二代目焉馬が立川の家元を称していることから、立川〇〇の名乗りも元祖もこの人物であると言えるでしょう。

落語家の名乗りに「〇亭△馬」というのがありますが、その最初も焉馬と言われます。文学史や江戸期の文化史に出てくる「浮世床」の作者、「式亭三馬」やも焉馬門下という説が有力です。

f:id:tadakaka-munoh:20211205220740j:plain

牛嶋神社境内の烏亭焉馬狂歌

また、歌舞伎の市川團十郎を贔屓にし、深い親交があったことから「團十郎」をもじって「談洲楼」という号も用いています。

f:id:tadakaka-munoh:20211205221343j:plain

狂歌碑の案内板

彼が「落語中興の祖」と言われているのは、天明四年(1784)に向島の料亭「武藏屋」において、狂歌の仲間を集めて自作の噺を演じる「噺の会」を開催し、その会合で、出席者が自作の噺を披露するようになりました。その会合の中から、現在につながる職業落語家と、その演じる場所としての寄席が誕生していったのです。

この噺の会は以降ほぼ1年ごとに開催され、寛政四年(1792)以降は、毎年の正月二十一日に「噺初め」の行事とり、一方で月例会も開催されました。この会には、親交のあった五代目市川團十郎の他、歌川豊国ら浮世絵作者や式亭三馬山東京伝などの下細工者仲間が参加しています。更には後に職業落語家として名を残す、三笑亭可楽三遊亭圓生なども加わっています。

落語の話が続きます。