おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

冗談は、寄席3

その人物の名は遠山金四郎景元、「遠山の金さん」として知られていますね。

町奉行を務めていた景元は、南町奉行矢部定謙と主に、老中水野忠邦、目付鳥居耀蔵と対立します。分不相応の贅沢と奢侈の禁止の方針の一部分には応じながら、極端な法令の実施には、江戸市民の生活や利益を脅かすものとして反対しています。

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遠山金四郎の墓のある、巣鴨本妙寺

対立の中で、同僚の矢部は鳥居の策謀により、過去の事件、それも本人の落度とはいえないような事件への関わりを蒸し返され、罷免・改易となります。桑名藩にお預けの身となった矢部は、その地で処分を不服として自ら食を絶って死亡、後釜の南町奉行には鳥居が就任することになります。景元は一人で水野・鳥居と立ち向かうことになりました。

水野は寄席の全面撤廃を主張、景元は芸人の失業と日雇い人の娯楽が消える恐れから反対しますが、全面廃止は阻止したものの、前回の話の通り、大半の寄席が廃業してしまいます。江戸市中の寄席は、創業の古いものから町奉行支配下におかれる十五席、寺社奉行支配の九席のみとなってしまいます。

鳥居が水野に進言した芝居小屋の廃止についても抵抗し、浅草猿若町への移転だけに止めました。

南町奉行就任前から、江戸市民にとって鳥居の評判は悪いものでしたが、このことで更に景元の評判が上がります。芝居関係者は『遠山の金さん』ものを上演(もちろん、次代や役名などは過去のものとした内容ですが)したといいます。

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名奉行 遠山金四郎の墓

その他の政策に対しても、内容を緩和させたり、実質的に骨抜きにするなど、ことごとく水野・鳥居の政策と反目していきます。結果、ついに景元は天保十四年(1843)に北町奉行から大目付となります。表面的には地位(格)が上がり栄転に見えますが、実質上は名誉職のような閑職でした。その後の水野・鳥居と景元については次回に。