おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

冗談は、寄席5

天保の改革で打撃を受けた落語席は、前回紹介したように安政二年(1855)には改革前以上の活況を呈しました。この年、一人の噺家が改名・真打に昇進します。三遊亭圓生(二代目)の弟子であった彼は、当時、浄瑠璃の新内語りとして人気のあった富士松紫朝にちなんで「圓朝」を名乗ります。

「近代落語の祖」といわれる三遊亭円朝の誕生です。

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谷中全生庵 三遊亭圓朝墓の案内板

天保十年(1839)、音曲師の長男として生まれ、七歳で橘屋小圓太を名乗り、子供噺家として口座に上がり、大いに人気を博しました。二年後には父、圓太郎の師匠でもある、二代目三遊亭圓生に弟子入りします。つまり親子で兄弟弟子となったわけですね。嘉永二年(1849)には、二つ目に昇進していますが、さらに二年後には一旦噺家を廃業し、商家に奉公したり、歌川国芳の下で画業を学んだ時期もありました。

その後噺家に戻り、先ほどの改名・真打昇進となるわけです。当時の圓朝は歌舞伎の書割(背景)や音曲を交えた芝居噺を得意としていました。

ある時、自らがトリを務める寄席興行に、助演(トリ前の演者)として、師匠の圓生が務めることになりました。弟子の前で演じるのを恥と感じたのか、この師匠は圓朝にある嫌がらせをします。

その出来事が、圓朝と落語の未来に大きな影響を与えることになるのですが・・その話は次回に。