おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

冗談は、寄席8

ある時、寄席で出番を終えた圓朝が楽屋に戻ったところ、一人の男が訪ねてきて、自分の書いたものを読んでほしいと言います。自分で書いた新作の筋立てを見て批評してほしい、というのかと思いきや、読んでみると先ほど口座でかけた噺が、一字一句文字に起こされていました。

男が書き起した内容の正確さに驚いた圓朝は、口演の筆記を取ることを許可します。そうして人形町末廣亭(昭和45年閉場)での高座を書きとめたものが「怪談牡丹灯籠」として明治十七年(1884)に出版されました。

男の名は若林玵蔵わかばやし かんぞう)、日本の速記術の先駆者といわれる人物です。

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こちらは新宿末廣亭 圓朝のの口舌筆記は人形町末廣亭で行われました

日本速記協会のホームページによると、日本では田鎖綱紀(たくさり こうき)が、明治十五年(1882)に西洋発祥の速記を元に「日本傍聴記録法」を発表しています。若林も田鎖に師事し速記を学んだ一人です。

「怪談牡丹灯籠」は大いに売れ、速記の普及に役立った他、ラジオやテレビのない時代、読むだけで寄席の口演を想像できることから、地方の読者にも名人の噺を知らしめ、落語を全国的な娯楽として広め、相乗効果で寄席の人気も上がることになります。

圓朝を中心とする「三遊派」と、圓朝のライバルを目された柳亭燕枝(りゅうてい えんし、後の談洲楼燕枝)の「柳派」が、明治の東京落語界をリードし、明治落語の黄金期を築きます。

日本の言文一致の流れが大きく加速していく要因に、落語口述速記本の影響があったのは「落語あれば座り」の冒頭で述べた通りです。

夏目漱石正岡子規が生涯の友となるきっかけも、二人の共通の趣味が寄席通いであった、など、文豪には寄席を好んだ人物が多く、落語と日本近代文学は切っても切れない間柄にあったのです。

圓朝作品には海外文学作品から翻案した「死神」や「名人長二」などの演目もあり、江戸時代以来の落語を大成しら落語家とされています。明治三十三年(1900)、六十一歳でこの世を去りました。十二年前にこの世を去り、「無舌」の境地を教えてくれた山岡鉄舟の墓のそばに葬られました。

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谷中 全生庵 山岡鉄舟

次回は落語のその後に触れ、この項を締めくくりたいと思います。