本法寺の境内にある「噺塚」の前に置かれた案内板の記載をまとめると、
・塚が建立された昭和十六年十月当時、国は戦時下にあり、各種芸能団体は演題演目について自粛を強いられていた
・落語界では演題を四つに分け、一番下の「丁」種(花柳界、酒、妾に関する噺、廓噺)五十三種を禁演落語として自粛することとした
・この中には名作と言われた「明烏(あけがらす)」や「五人廻し」「木乃伊取り」が含まれ、高座で演じることができなくなった。
・この塚はこれらの名作と落語界の先輩の霊を弔うために建立され、禁演落語の台本などが納められた。
・戦後昭和二十一年九月に、この塚の前で禁演落語復活祭が行われ、これまで納められていた台本の代わりに、戦時中の台本などが納められた。
廓噺、とは遊郭を舞台にした落語です。花柳界も含め、退廃的なテーマの内容を禁じた(自粛した)というところでしょうか。
ちなみに「明烏」という噺は、
大店の真面目な若旦那。父親はあまりの堅物ぶりに将来を案じ、町内の遊び人二人に頼んで息子を吉原の遊郭に連れて行ってやるように頼みます。二人は若旦那を「霊験あらたかなお稲荷さまにお籠りで参拝しましょう」と誘い出し、若旦那は花魁を見て初めて騙されたことに気づくが・・・(その先は省略)
また、案内板には書かれていませんが、「居残り(佐平治)」「お見立て」(これらは遊郭が舞台)や「紙入れ」(間男の噺)なども高座にかけることができなくなりました。
案内板にもあるように、戦後これらの落語は復活しますが、逆に昭和二十二年(1947)には、進駐軍の検閲機関の指示に応じた形で、二十七演目を自粛することになります。
その中には「宿屋の仇討ち」「花見の仇討ち」などが含まれます、戦後すぐは、「忠臣蔵」の上演も禁じられていましたから、戦勝国であるアメリカとしては、日本が「仇討ち」を企図した演目は許しがたかったのでしょうか。
昭和二十八年(1953)に占領体制の終了とともに、この二度目の自粛は解除されます。
その後、昭和五十三年(1978)の落語協会の分裂を経て、落語界は今に至ります。四百年に渡る日本の話芸、近代日本文学の源流として落語を見ると、また違った楽しみ方ができるのではないでしょうか。
落語の話は以上です。最後までお付き合いいただきありがとうございました。