おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

On the sonyside of the street

ちょっと脱線し、話は年が明ける直前の12月に遡ります。

銀座数寄屋橋のビルに、ある会社が広告を出すところです。

戦後すぐ、昭和二十年(1945)九月、日本橋三階に、小さな研究所が立ち上がりました。終戦直後のことで、まずはラジオの修理と改造を手掛けながら、翌年五月に株式会社を設立します。資本金は十九万円、社員全員そろっても三十人弱という規模でした。

が、まだ発明されて間もない半導体トランジスタ」を使ってラジオを作ることを目指し、「世界初」は逃したものの、昭和三十年(1955)に実用化に成功すると、ラジオの更なる軽量・小型化を進めていきます。

同年、自社のブランド名をつけたトランジスタラジオをアメリカで販売することを計画します。その際、アメリカの会社から、「販売するラジオのブランド名には『当社の商標』を付けること」という条件を提示されました。その条件であれば10万台オーダーしよう、というのです。

しかし、「50年経ったら、あなたの会社と同じくらいにこのブランドを有名にしてみせる。」と言い放ち、この話を断ります。これが四月のこと。幸か不幸か、販売予定の1号機が初夏の気温の上昇で、キャビネットの外側が変形するという事件が起こります。改めて変形しない材料とデザインの研究を重ねた結果、九月に日本初のトランジスタラジオが販売されました。

すでにラジオの普及率は約七割、市場には伸びしろがないと考えられていました。しかし、これは世帯で考えたときの普及率で、六人家族として個々人で考えると、普及率は単純にその六分の一となり、マーケットは大きく広がります。小型化・軽量化を目指したのには、ラジオのパーソナル化という視野を踏まえていたのです。

昭和三十二年(1957)にアメリカで自社ブランドの「ポケットに入るラジオ」を売り出し、大ヒットさせました。その年の暮れ、大ヒットさせていた商品のブランド名をネオンサインに映し出そうとしたのです。

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トランジスタラジオ(昭和館) アメリカでヒットした製品はこのタイプではありません

昭和三十二年(1957)十二月十九日、ネオンにアルファベット4文字のブランド名が明るく輝きました。「SONY」の四文字。
 年末の「ゆく年くる年」で東京の夜景を映しだした際、このネオン広告は、テレビの電波に乗って全国に映し出される、というおまけまでつきました。
そして、翌年1月、その会社「東京通信工業」は、社名を商品ブランドの「SONY」に改め、同年12月には東京証券取引所一部上場、日向の道を歩んでいくのです。

話が横道にそれましたが、次回は東京タワーの話に戻ります。