おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

春は梅見ごこち3

菅原道真左大臣藤原時平の讒言に遭い、大宰府に左遷されたのが昌泰四年(901)のことで、その際同じく宇多上皇の側近たちも左遷・流罪となりました。この事件は「昌泰の変」と呼ばれます。単純に右大臣であった道真と、左大臣時平の間の個人的な確執というよりは、宇多上皇および側近たちと、醍醐天皇と周囲の貴族たちとの対立があったようです。

宇多上皇藤原氏の影響を排除しようとしており、一方醍醐天皇藤原氏と連携しながら政権を安定させようとしていたためです。醍醐天皇に「右大臣(道真)が謀反を企てている、と進言したのは藤原定国藤原菅根の二人です。進言を信じた醍醐天皇宣命により、道真は左遷となり宇多上皇側は政治的に敗北してしまいます。

この年、「延喜」への改元が行われています。

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太宰府天満宮 2015年3月撮影

翌々年の延喜三年(903)、道真は大宰府の地で失意のうちにこの世を去ります。道真の門弟であった味酒安行(うまざけのやすゆき)が、祭礼のために牛車に遺骸を載せて安楽寺に向けて進んだところ、寺の門前で牛が急に体を伏せて動かなくなりました。

安行は、「これは道真さまがここに留まりたいとおっしゃっているのだろう」と、その場所を墓所としました。この墓所の上に社殿が造営されたのが、安楽寺天満宮です。この神社が明治の神仏分離廃仏毀釈および近代社格制度により、現在の「太宰府天満宮」となって現在に至っています。

道真の死後、毎年のように長雨による洪水が起きたかと思えば、干ばつや伝染病という天変地異が発生するようになりました。人々はこれを「道真公の祟りではないか」と噂をし始めます。

謀反の進言を行ったうちの一人、藤原定国が延喜六年(906)に四十歳の若さで休止すると、もう一人の菅根もその二年後、五十四歳で急死してしまいます。