多治比文子(たじひのあやこ)に対し、枕元にたった道真は、
「我昔、世に在りし時、しばしば右近馬場に遊覧せり。~中略~須らく彼処に禿倉(とくそう=ほこら)を構へて潜寄の便を得しめよ。」
かつてこの世にあった頃、北野の地にあった宮城の土居(土を盛った塀、土塁)の辺りに遊んだものだ。その場所に私を祀ってもらいたい
というお告げを与えたのでした。しかしながら、文子にその地の社殿を作りお祀りする財力はありませんでした。そこで、自らが住んでいた右京七条二坊に小さな祠を建ててお祀りしました。これが、天神信仰発祥の地、北野天満宮の前神社といわれる文子天満宮です。(ここも三十数年前に訪れたきりで写真がありませんので、神社のHPを掲載します)
ayakotenmangu.or.jp多治比文子の像が、文子天満宮の境内にあります。大昔参拝した時の記憶にはないのですが、ネット等で拝見すると少女のような像で、道真の乳母?というのとは違和感がありますが、一説によると乳母ではなく巫女であったとも。
文子が託宣を受けた五年後にも、近江国で同様の託宣がありました。そこで朝廷は道真が示した北野の地に道真を祀る社殿を造営しました。天暦元年(947)のことです。
その後、道真が亡くなった大宰府の地の社殿も「天満宮」の名で名付けられました。
当初は怨霊・雷神をお祀りする神社でしたが、生前の道真の学者・歌人という文人のイメージから、詩文の神と意識されるようになります。更に時代が下がり、鎌倉・室町時代には北野の地で歌合わせや連歌など、文化的な催しがなされたことから、学問の神様として崇敬を集めるようになります。
豊臣秀吉の時代には、この地で北野大茶会が開催されたことはよく知られています。梅の話つながりから、天神信仰の話が長くなりましたが、次回以降は東京の梅の名所、亀戸・湯島の天神さまをご紹介していきます。