おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

参りゃんせ~行きは良い酔い、帰りはWHY?2

この鳥居の銅板部分にいくつか穴が開いて、中の石の柱が見えている箇所があるのですが、おれは太平洋戦争の際の機銃掃射でできた穴だそうです。

銅鳥居をくぐり境内を奥に進むと、何体もの牛の像が置かれているのが目に入ります。
見落としていなければ五頭の牛が奉納されていました。
一番古いものは嘉永五年(1852)に奉納されたもので、銘に「岸澤右和左門弟中」とあります。

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五体のうち最も古い牛の像

案内板によると、この年は道真公の九百五十年忌にあたり、平河天満宮でも御開帳(御神体の特別公開的なもの)が行われたとのこと。常磐津の三味線方(浄瑠璃を演ずる際、語る側を「太夫」、三味線を演奏し合の手を入れる側を「三味線方」と呼びます)「岸澤流」の師匠「岸澤右和左(きしざわうわさ)」の弟子たちが奉納したのがこの像にあたります。天神様が学問のみならず、芸事に関する信仰を集めていた資料として貴重なものだそうです。

この像の他に四頭牛の像が奉納されていますが、うち三頭は「肉の名門」で知られる「銀座スエヒロ」の関係者の奉納されたものでした。供養の意味もあるのでしょうか・・

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スエヒロ牛のうちの一頭

境内には他に狛犬や筆塚など、石造奉納物が残されていますが、ここでは省略します。

また、学問の神様らしく、学者の信仰も集めていました。江戸時代、四十年以上をかけて「群書類従」を編纂した盲目の国学者、塙保己一はなわ ほきいち)は、道真公と豊臣秀吉を尊敬していました 住まいでもあった和学講談所がこの近くにあったことから、熱心な信者として祈願を重ねていたといいます
また、「蛮社の獄」の被害者で「三兵答古知機(さんぺいたくちーき)」の翻訳者として知られる蘭学者高野長英蘭学塾「大観堂学塾」も麹町貝坂にありました。長英もここによく参拝に訪れたといいます。
和洋の大学者から信仰を受けていたというのは興味深いところです。もっとも、長英の方は楊弓場や茶屋が目当てだった可能性も無くはないですが・・・

最後に、境内の梅ですが「縁結びの梅」が拝殿の前、左側にあります。

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境内にある「縁結びの梅」隣には道祖神(和合の姿)の祠?が・・

梅の実がペアで成る、ということでこの名前があるそうで、根元のところに写真がありました。梅の実が成るのは6月ころですから、実際に成っているところを見に来ようと思います。

平河天満宮の話は以上です。次回は有名なわらべ歌の舞台でもあり、平河天満宮の勧請元、川越の「三芳野天神(神社)」をご紹介します。