この鳥居の銅板部分にいくつか穴が開いて、中の石の柱が見えている箇所があるのですが、おれは太平洋戦争の際の機銃掃射でできた穴だそうです。
銅鳥居をくぐり境内を奥に進むと、何体もの牛の像が置かれているの
見落としていなければ五頭の牛が奉納されていました。
一番古いものは嘉永五年(1852)に奉納されたもので、銘に「岸澤右
案内板によると、この年は道真公の九百
この像の他に四頭牛の像が奉納されていますが、うち三頭は「肉の名門」で知られる「銀座スエヒロ」の関係者の奉納されたものでした。供養の意味もあるのでしょうか・・
境内には他に狛犬や筆塚など、石造奉納物が残されていますが、ここでは省略します。
また、学問の神様らしく、学者の信仰も集めていました。江戸時代、四十年以上をかけて「群書類従」を編纂した盲目の国学
また、「蛮社の獄」の被害者で「三兵答古知機(さんぺいたくちーき)」の翻訳者として
和洋の大学者から信仰を受けていたというのは興味深いところです
最後に、境内の梅ですが「縁結びの梅」が拝殿の前、左側にあります。
梅の実がペアで成る、ということでこの名前があるそうで、根元のところに写真がありました。梅の実が成るのは6月ころですから、実際に成っているところを見に来ようと思います。
平河天満宮の話は以上です。次回は有名なわらべ歌の舞台でもあり、平河天満宮の勧請元、川越の「三芳野天神(神社)」をご紹介します。