おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

ひえひえのあつあつ2

甫庵太閤記(ほあんたいこうき)』によると、「母親(のちの大政所ですね)が懐中に日輪の子を宿した夢を見、その後懐妊して男子が誕生し、「日吉丸」と名付けた」これが更に、「男子出生を日吉神社に祈願したところ、願どおり男子が生まれたので、神社の名をいただき『日吉』と名付けた」という通説になっていきます。

このエピソード自体が作り話だともいわれますが、だとしても秀吉の素性を由緒あるものにするために、日吉大社が関係しているのは興味深いところです。

また、秀吉が「猿」というあだ名で呼ばれていたことも知られますが、日吉大社のお使いは「神猿」。

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日吉大社の顔ハメ 神様のお使い、猿も登場しています

信長が古来の宗教団体を破壊しながら権力の頂点に立ったのに対し、その後を追った存在として政権を安定させるためには、再度その勢力を懐柔し取り込む必要があったのではないかと思います。秀吉は信長が焼き払った比叡山と、鎮守である日吉大社の再建に尽力しました。

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日吉大社西本宮本殿 天正十四年(1586)再建 慶長2年(1597)改修

川越の日枝神社はこの稿の最初に紹介しましたように、円仁(慈覚大師)が喜多院の鎮守として、日吉大社を勧請したものです。当初は喜多院の境内にあったものが、大正時代に県道建設のため、現在の地に遷されました。

本殿は室町時代後期に建立されたものといいますから、焼き討ち後に再建された本家の本殿より古いことになりますね。

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川越日枝神社

「仙波古墳群」という墳丘(前方後円墳)を開削して遷されたので、境内の一部にその名残が残っています。

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墳丘に「仙波山」の文字が

「せんばやま」というフレーズで思い浮かぶのは、「あんたがたどこさ?」で始まる「肥後手まり唄」ですが、「川越 仙波山」で検索すると、この唄の舞台はここ川越の仙波山である、という説があることを知りました。

次回は「肥後手まり唄 川越舞台説」についてご紹介していきます。