現在の名称こそ日枝神社となっていますが、江戸期には山王権現、日吉山王権現などと呼ばれていました。「権現」とは神仏習合の思想において、仏教の仏(如来)や菩薩が仮の姿として日本の神の姿となって現れたことをあらわしています。
江戸幕府が山王権現への崇敬が篤かったことは、現在の神社の位置が江戸城から見た裏鬼門の方角(南西)にあたることからもわかります。鬼門(北東)の方角には上野の「寛永寺」があり、寛永寺の山号は「東叡山」。
京都の鬼門を鎮護する「比叡山延暦寺」に対しての「東叡山寛永寺」と延暦寺の守護神の「日吉大社」を勧請(実際には川越からですが)した「日吉山王社」がセットで江戸の鬼門・裏鬼門を守護しているわけです。
また、寛永寺の開山は家康の側近として知られた「天海僧正」、江戸時代初期の朝廷政策・宗教政策に深くかかわった人物です。天海僧正は川越の「喜多院」の住持も勤めたことがあり、ここでも京都~川越~江戸のラインが繋がっています。
「山王祭」は、三代将軍家光の時代から、江戸城内に入御した御神輿を将軍が上覧拝礼する「天下祭」として盛大をきわめました。神田明神(神田神社)の神田祭、富岡八幡宮の深川祭とともに江戸三大祭りとして知られており、江戸時代の狂歌に「神輿深川、山車神田、だだっぴろいは山王様」と詠まれました。
最盛期にはは、文化・文政期に神輿3基、山車60台という大行列で行われたそうです。
これほどまでに信仰を集め、繁栄を極めた山王日枝権現ですが、江戸時代までのその考え方を否定したのが、明治政府による「神仏分離令」でした。つまり、神社と寺院を分離するということですが、それは「権現」のような存在の否定でもありました。これにより権現号をやめ、現在は「日枝神社」を正式名称とするようになり、現在に至っています。
日枝神社の話、続きます。