おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

迷えるツツジ3

東京都神社庁の「根津神社つつじ祭り」のHPにはこのように書かれています。
当神社の境内は宝永3年(1706)現社殿等7棟が徳川五代将軍綱吉によって造営されるまで、綱吉の兄・甲府藩主綱重の下屋敷でした。綱重は当時、将軍になる前に上州館林藩主であった弟・綱吉との縁から、当時、既にツツジの名所であった館林よりキリシマツツジをこの下屋敷の西側の丘に移植したのが根津のツツジの起こりです。

根津神社ツツジとアヤメ

綱吉との縁から、というのがあまり具体的ではないですが、綱吉が兄に献上し、下屋敷の庭園に植えられた、と見てよいと思われます。この稿の冒頭で、館林のつつじまつりについて触れましたが、根津神社のつつじまつりのルーツは館林にあったといえます。
また、wikipedia根津神社の項には、
つつじ園 - 旧藩邸時代に家宣が植えたのが最初。現在も栽培されており、開花期(春-初夏)には一般開放されている。
とあります。六代将軍家宣=徳川綱豊で、綱重の息子であり、綱吉の甥でにあたるので、若干の時代は前後するものの、根津神社につつじが植えられたのはこの辺りの時代であることに違いありません。

つつじの間から楼門を望む

四代将軍家綱が将軍の座にあること約30年、延宝八年(1680)病に倒れます。元々体が弱く男子がなかったことから、館林藩藩主綱吉を養子に迎え後継者としました。五代将軍となったわけです。
次の弟である綱重は、家綱に先立つこと2年前にこの世を去っています。その子綱豊も将軍後継者として有力でしたが、老中堀田正睦が、三代将軍家光から血筋の近い綱吉を強く推したといいます。その綱吉も後継者となる男子がいませんでした。(将軍となる前に男子をもうけていましたが夭逝しています)
「生類憐れみの令」は、綱吉に後継ぎのいないことを憂いて発布されたというのがかつての定説でした。しかし、今ではその説は否定されているようです。
根津神社の話、続きます。