根津神社境内には、摂末社として社殿の西側に、つつじ園から千本鳥居を進んだ先にある「乙女稲荷」と、更に北側に「駒込稲荷」があります。
朱色の鳥居が立ち並ぶさまは、京都の伏見稲荷を小さくしたような景観ですが、つつじの時期は人が多すぎて、外側から撮影するのが精一杯です。「乙女稲荷神社」は参道先の斜面に祠を作って祀られています。
結論から言うと、「乙女稲荷」が祀られたのは、根津神社がこの地に遷されたのと同じ時期らしく、この地にすでに祀られていたのは「駒込稲荷」の方です。
藩邸の守り神として祀られたのが寛文元年(1661)といいます。同じものが江戸の他の甲府屋敷、浜屋敷などにも祀られました。翌年に綱豊(のちの家宣)が生まれているため、懐妊を祝って造営された、という見方もできなくはないのですが、どうもそうではなさそうです。
というのも綱豊は、父綱重が正室を京都・二条家から迎える前に、女中のお保良に産ませた子供でした。「虎松」と名付けられましたが、正室に憚って家臣の新見正信に養子として預け、名前も新見左近を名乗っていました。普通であれば、そのまま臣籍として人生を歩んでいた可能性が高かったのです。
9歳のとき、綱重が他の男子に恵まれなかったことから世嗣として呼び戻され、ついにが六代将軍となったわけですから、相当数奇な運命を歩んだ人物だと言えるでしょう。
この駒込稲荷ですが、他の稲荷と同じく、狛犬の代わりに狐の像が左右に配されているのですが、狐というより貂かなにかのような姿です。しかも一頭ずつでなく、岩の上下に数頭ずつ配されているという、他にはあまり見たことの無い形式です。
つつじ祭りの最中にも、北西の端にあるこの神社を参拝される方はそれほど多くは無いようでした。根津神社の前から鎮座し、綱豊(家宣)の守り神でもあった稲荷社にも足を向け、彼の数奇な人生にも思いをはせてみてはいかがでしょうか。