「天明の大飢饉」をwikipediaで検索すると、「江戸時代中期の1782年(天明2年)から1788(天明8年)にかけて発生した飢饉である。江戸四大飢饉の1つで、日本の近世では最大の飢饉とされる」と記さ
飢饉が始まったのが、天明二年(1782)とあって、噴火の前年
東北地方では、「天明2年(1782年)から3年にかけての冬に
夏から秋にかけてはというと、噴火により成層圏にまで吹き上げら
これにより、東北地方を始めとする東日本に壊滅的な農作物被害を与え
特に東北の諸藩に被害が大きく、弘前藩では餓死者が続出し、隣の秋田藩へ逃散する農民が後を絶たず、一冬で8万人を超える死者を出した(一連の飢饉で10数万人)とされます。
盛岡藩においても、藩総人口30万人の4分の1に相当する7万5千人を超える死者を、八戸藩や仙台藩においても多くの死者を出しました。
これだけの被害が出た原因としては、冷夏等による米の不作が第一の原因です。現在でこそ米は品種改良が進んでいますが、当時は冷害の被害を受けやすい作物でした。にもかかわらず、米本位制の経済であったことから、東北諸藩でも稲作を奨励した必然の結果ともいえます。更には財政窮乏から、本来こういう時の備えの備蓄米を換金のため江戸や大阪に廻米に向けたことから、更に領国での食糧不足とそれによる被害を深刻なものにしてしまいました。
大きな被害の出た東北諸藩の中にあって、殆ど被害らしい被害の出なかった藩もありました。米沢藩と白河藩がその代表です。
次回はその二つの藩が、飢饉をどのように乗り越えたのかご紹介していきます。