おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

混ぜるな飢饉!負けるな飢饉!2

最初にご紹介するのは山形の米沢藩です。米沢には二十数年前に訪れたことはあるものの、デジカメなどの掲載写真がありません。m(__)m

米沢藩は九代藩主、上杉治憲(うえすぎ・はるのり)の時代です。明和四年(1767)に家督を継ぎ、米沢藩の財政改革に取り組みました。天明五年(1785)に享和二年(1802)に養子に家督を譲って隠居し、享和二年(1802)には剃髪しています。この時名乗った「鷹山(ようざん)」の号の方が世に知られています。これ以降は知られた「鷹山」で統一します。

元々、藩の石高(17世紀後半に30万石⇒15万石に減封)に比べ、藩士の数は豊臣時代の120万石の時から変わらず、慢性的に赤字で借財が増えていくばかり、という状況でした。前藩主の養父、重定は藩領の返上を考えるまでの状況でした。

藩主となってから、藩内の対立を乗り越えながら改革に取り組み、天明の飢饉においても非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自身も粥を食して率先して倹約に努めました。他方では寒さに強い麦作を奨励するほか、近隣の酒田や越後から米を買入れ領民に供出し、領民を救いました。

これらの改革・飢饉対策により、鷹山は江戸時代屈指の名君として知られています。

もう一人、この飢饉の際に領民を救ったとして知られるのが福島県白河藩です。

白河城 白河藩11万石の城下町

飢饉の始まりの天明二年(1782)には松平定邦が松平白河藩二代目藩主でしたが、翌年10月に家督を譲っています。三代目の藩主が、のちに老中となり、「寛政の改革」を行う松平定信です。定信は八代将軍吉宗の孫にあたり、御三卿のひとつ、田安家から白河松平家の養子として迎えられました。

白河城からの街の景観

分領の越後から米を取り寄せた他、江戸、大坂などから米、雑穀などを買い集め領民に施しています。また当時重商主義の流れに反し、重農主義をとり、自らが率先し領民に質素倹約を説きました。それにより領民から餓死者は一人も出さなかった、とされています。

これらは数少ない藩主主導の改革成功例ですが、この飢饉のなかで、町人が飢饉から街を救う、というケースがありました。次回はその話をご紹介します。