おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

混ぜるな飢饉!負けるな飢饉!3

飢饉の起こる前年、元号天明元年(1781)と改められています。下総国佐原村の農民三郎右衛門は、領主津田氏(旗本)より村内の集落本宿組の名主に任命されました。

佐原の街並 舟運の中継地として栄えました

さらに天明三年(1783)には、名字帯刀をも許されます。名字帯刀を許される、といっても、その際に名字を拝領したり、新たな名字を考えたりするのではなく、代々伝わる名字を公的に名乗る権利を認められた、ということです
三郎右衛門の場合、上総九十九里の出身でしたが、17歳の時に佐原の伊能家に婿として入り、家督を継いでいました。伊能三郎右衛門忠敬として公的に名乗ることを許された、ということで、この先は忠敬と呼ぶことにします。
佐原は「お江戸見たけりゃ佐原へござれ 佐原本町江戸まさり」と唄われ、利根川流域随一の河港商業都市として発展し人口も5,000人ほどあったといいます。
その佐原の街にあって、伊能家も、酒・醤油の醸造貸金業、舟運業を経営し、農民といっても商家を兼ねた存在でした。

伊能忠敬旧邸宅

忠敬が婿に入った時期の伊能家(三郎右衛門家)は、代々の当主が早世し、家業の規模を縮小せざるを得ない状態でした。忠敬この状態をを建て直すだけでなく、更に事業を拡大させています 経営手腕に長けた、優秀な入婿さんだったのですね
さて、天明の大噴火は遠く佐原の地にも火山灰を降らせ、農作物に大きな被害を与えました。名主・忠敬は、村方後見の永沢治郎右衛門と「今年の年貢を免除していただこう」と領主津田氏の地頭所に願い出て、全額年貢免除の他に、お救い金百両を拝領することにも成功しています。

といってもその後、それ以上の御用金や堤防修築の費用負担を村方に命じられるのですが、その修築の際にも、材木などの材料費を安く買付け、差額を工事の労務者への賃金を増額させるなど、村民の生活向上に努めてもいます。

飢饉による米不足にも、関西から安く買い込んだ米を佐原の米商人に安く卸し、飢饉前と同じ値段で庶民に売るようにし、これにより佐原の街からも餓死者は一人も出なかったといわれています。

飢饉において佐原の街と住民を救うことはできましたが、他国や他の村から多くの放浪者が食を求めて流入してくることになります。これについても、忠敬たちは有効な対策を行っています。どのように街と自分たちを守ったか、については次回で。