天明四年(1784)に名主の役を免ぜられ、村方後見の役を命じられた忠敬は、同職の永沢治郎右衛門とともに、本来領主が行うべき佐原の行政を負わされるようになります。この両家が手持ちの貯蔵物を供出し、農民には種籾や緊急当座の食を貸し与え、手持ちの米を安く供給(前回ご紹介しました)したことで佐原の人々を救ったと言えます。
佐原一村はこうして飢饉の被害から免れましたが、全国的に多くの流民が発生しました。
21世紀の現在においても、世界的には難民問題が残っていますが、生活ので
天明の飢饉の際も、逃散・逃亡により流民が発生し、大規模な都市
天明六年(1786)は、東北地方を始め再び気候が寒冷な年となったのに加え、冷害以上に風水害が米の不作に拍車をかけています。7月の大雨は、利根川を初めとする関東の各河川を氾濫させただけでなく、老中田沼意次が行っていた印旛沼の干拓事業(新田開発)も彼の失脚と共に中止に追い込まれてしまいます。この年の米の収穫高は全国平均で平年作の約三分の一にまで落ち込んだと言われています。
米の記録的な不作は米価高騰をもたらし、都市部の庶民を更に苦しめます。更には江戸幕府内の政争により、政治は空洞化していました。
そうした中、天明七年(1887)5月、大阪での打ちこわしを始まりとして、全国に広がっていきます。「天明の打ちこわし」です。