おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

三べえ回って煙草にしょ~天狗分け目の戦い

明治五年(1872)に土田安五郎によって国産第一号の紙巻きタバコが製造され、明治十四年(1881)には「博覧会」出品した商品が有功賞牌を受賞したところまでは、前回のテーマでご紹介しました。

とはいえ、紙巻きタバコを国内に大々的に広めたのは、明治十七年(1884)に銀座に「岩谷商会」を立ち上げ、「天狗煙草」のブランドで大々的に売り出した 岩谷 松平(いわや まつへい)でした。

明治のタバコ王「タバコ三べえ」

松平は、薩摩の出身で、元々銀座(現在の松屋百貨店のあたり)で「薩摩屋」という薩摩物産販売店を開き、そこで薩摩の特産品である煙草も販売していました。

原料を巻紙に送り出す足踏み填充機を導入し、手作業が欠かせない紙巻きタバコを大量生産することで、「天狗煙草」は大いに売れ、大成功します。

現在のタバコは吸口の部分にフィルターが取り付けられていますが、当時の「天狗煙草」は、紙巻たばこに口紙と呼ばれるやや厚い円筒形の吸い口をつけた「口付(くちつき)と呼ばれるタイプでした。

天狗煙草のパッケージ

翌年、同じく東京の千葉商店の千葉松兵衛が「牡丹印」のブランドで紙巻きタバコを発売、タバコの製造・販売は次第に大手が牛耳っていくことになります。

大量生産・販売のために宣伝合戦が繰り広げられます

今ご紹介した二名に少し遅れ、京都で煙草の行商を行っていた村井吉兵衛は、東京でのこれら二人の盛況ぶりを視察・研究し、紙巻煙草の製造に参入します。明治二十四年(1891)にアメリカ人技師の協力で日本初の「両切り紙巻き煙草」を製造、「サンライズ」のブランドで販売します。「両切り紙巻き煙草」は刻んだタバコ葉を紙で巻いて両端を揃えて切ったタイプのもので、巻き上げ機など米国の技術を導入して完全機械化することで、更に製造効率を高めました。

これで明治のタバコ王、松平・松兵衛・吉兵衛の「タバコ三べえ」が揃い踏みしました。特に岩谷松平と村井吉兵衛の二人は「明治たばこ宣伝合戦」と呼ばれる争いを繰り広げていくことになるのです。その話は次回以降で。