岩谷松平と村井吉兵衛は「宣伝合戦」と世間周囲が囃すのも無理もないと思えるほど対照的でしたが、広告の重要性を知り、実 践したという点では一致しています。
松平は、豪放磊落(ごうほうらいらく)そのものといったイメージです。天狗煙草のブランドを浸透させるため、銀座の店舗は 一面真っ赤に塗った上、店主である自分自身も真っ赤な衣装に身を 包むだけでなく、赤い馬車で街中を回って練り歩く(走る?) 徹底振りでした。妻がなくなったときには、なんと葬儀のときに赤 い棺を用意したといいます。今でいうコーポレートカラー(赤)やキャラクター(天狗)を前面に押し出したわけです。
新聞広告がまだ一般化されていない時代に、景品付きという販売方法の新聞広告を出し、紙巻たばこの宣伝も行いました。
また、商標に故郷薩摩の藩主、島津家の家紋を模した「丸に十字」のマークを採用しています。ただ、この丸に十字の紋、十字の上下が丸に接しておらず、若干は
余談ですが、松平の乗る赤い馬車から声をかけられた光永星郎(み つなが ほしお)は、明治三十四年(1901)同じ銀座に新聞社に広告を取り次ぐ広告代理店、「日本広告株式 会社」を設立します。設立当初は社員 8名という小さな会社でしたが、この小さな会社が後の「電通」に発展することになります。
話を戻して、松平は「東洋煙草大王」「大安売りの大隊長」を自ら名乗っています。
金天狗(20本入り5銭)から小天狗(50本入り7銭)らの商品
各地の店に掲げた看板には、「勿驚(おどろくなかれ)税金たったの五十万圓」「慈善職工三萬人」の文字が書かれています。(上の木の看板の写真の左右にその文言が書かれているのですが、うまく映っていません)
「こんなに煙草が売れた結果、50万円も(「たったの~」は逆説的に使っているのでしょう)納税している」「職工を三万人も雇い入れ、雇用を生み出している」とのアピールですが、この数字、税金の額は百万、二百万へと、職工の数は十万人、二十万人へと次第に増えていきました。これは相当過大な数字だったようで、今だと「過大広告」となっているかも知れません。
一方、村井吉兵衛はというと、こちらについては次回以降で。