おっさんの街歩き(忠敬に憧れて)

首都圏周辺の見て歩きや気になった本やドラマなどについて語ります

煙草(なつくさ)やつわものどもが煙のあと

タバコの収穫は6月中旬から9月中旬に収穫されますが、その間の7月頃に薄いピンクの花が咲くそうです。ただ、タバコの育成上栄養が花や実(種)にいかないよう、採種用のタバコ以外については花はすぐに切除されてしまうのだとか。収穫や開花の時期から、タバコは夏の植物と言ってもよさそうです。

さて、明治三十七年(1904)七月にたばこ専売法が施行され、「タバコ」の製造・販売を国の管理で行われるようになりました。これによりその年収穫されたタバコは、大蔵省専売局により製造販売が行われました。

専売後の煙草の看板 口付・両切双方が記載されています

では、専売に至るまでのタバコ税制の歴史触れてみると、明治九年(1876)に「煙草税則(たばこぜいそく)」が施行されます。それまでは煙草営業税のおみであったものに、製造煙草税を加え、たばこ」の包装に印紙を貼付することで税金を徴収しました。しかし、印紙を貼らずに出荷する脱税が横行します。岩谷松平の「勿驚(おどろくなかれ)税金たったの〇〇万圓」というのも、正規に販売を行っている、というアピールであったのかも知れません。

その後、税収の増大を図り、明治三十一年(1898)に「葉煙草専売法」が施行され、原料の葉たばこを国が買い上げました。が、逆に葉たばこの不正取引や安い輸入品の国内流入を招いてしまい、税収は増加しません。そこで政府が製造・販売を行う煙草専売法」が制定されました。

官営化にあたり、たばこ商へ莫大な補償金が支払われましたが、その中で最大の金額を獲得したのが村井吉兵衛でした。全賠償額のうち45パーセント以上にあたる1,120万円の大金が、村井吉兵衛に渡ったとされています。その補償金を元に、銀行を設立し「村井財閥」として日本石鹸、村井カタン糸(後に帝国製紙)などの事業を進めていきました。明治四十二年(1909)には京都丸山公園の一角に、国内外の賓客をもてなすための迎賓館を建設しました。完成直後にここに滞在した伊藤博文は、館からの眺めに感動し「この館に遊ばば、其の楽しみやけだし長(とこし)へなり」と詠み、それにちなんで、この別邸は「長楽館」と名付けられました。

円山公園にある「長楽館」

長楽韓案内板

また、東京にの永田町に本邸を構え、その邸宅は「山王荘」と呼ばれました。しかし、村井財閥のその後はというと・・その話は次回に。